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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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第五話 白紙の表紙

その朝、私は珍しく寝坊をした。


正確には、寝坊というほど遅くはない。ただ、十年ぶんの「定刻に起きなければ家が回らない」という呪いが、ようやく半歩だけほどけた、というだけのことだった。

カーテンの隙間から、もう午前の光がしっかりと差し込んでいた。

光の中で、私はシーツの端をしばらく指でつまんでいた。

シーツの織りが、屋敷のものより糸が一本太かった。それだけのことが、なんだか嬉しかった。


「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」

扉の向こうから、マルゴの声がした。

「ええ。今、起きたところ」

「お珍しいこと」

マルゴは少し笑いを含んだ声で言い、それから声をわずかに低くした。

「それと——奥様。少々、お耳に入れたいことがございます」



朝食の卓に着くなり、マルゴは声を一段落として言った。


「王宮監査局から、ケーニッヒスベルク侯爵家へ、開示請求が出たそうでございます」

「開示請求」

「『負債帳の写しを、本日中に提出せよ』と」


私は、紅茶のカップを手の中で止めた。


王宮監査局の開示請求というのは、滅多に出されるものではない。

出される時というのは——たいてい、誰かがお困りになって、「自分の家とあのお家との間に、どれくらいの貸し借りがあったのか、確認したい」と、監査局を通じて問い合わせる時だった。

一件、二件と、各家からの問い合わせが続くうちに、監査局がそれをまとめて本人の家に送るのだ。「諸家からの照会が相次いでおりますので、貴家の負債帳の控えをご提示願います」と。


つまり、ケーニッヒスベルク家との取引や貸し借りについて、王都の貴族たちが一斉に確認を始めた、ということだった。

昨夜、夜会に誰一人来なかった、その朝に。


——皆様、お早いこと。


私は紅茶をようやく一口、口に運んだ。

温度がちょうどよかった。



「それで、奥様。屋敷では大変な騒ぎだそうでございます」

「大変」

「奥様が——あの夜、お預けになった、あの、書類の束を、開いてご覧になったところ」


マルゴはそこで言葉を一度切った。

切ってから、私の顔をおそるおそる覗き込んだ。


「中身が白紙だった、と。ことでございます」


私は卵料理にナイフを入れた。

入れたが切れていなかった。私は手を止めた。


「全部」

「ほとんど全部だそうでございます。表紙と最初と最後の数枚にだけ書き込みがあって、あとは白紙だった、と」


私は息を吐いた。


——ようやくお気づきになったのね。


夜会の壇上で、私が夫の腕に預けた、あの分厚い書類の束。

重ねれば人の胸ほどになる、十年分の招待状リストと、各国大使の宗教的禁忌の覚え書きと、料理人との取り決めと、そして一番上に置いた、立派に装丁された負債帳の冊子。

あの夜、千人の目の前で、私は夫に「お返しいたしますわ」と預けたのだ。

それでいいと思っていた。


夫はあの夜、書類の束を開かなかった。

あの方らしい、と私は思った。

中身を見ずに、形の重さだけで満足する人だった。十年、ずっとそうだった。


書類のうちの、料理人の覚え書きと宗教関連の書付は本物だった。十年分、写しを取って束ねたものを、私は実際に夫の腕に預けた。

けれど、いちばん上に置いた、装丁の立派な負債帳の冊子——あれだけは、表紙と最初と最後の数枚しか書いていなかった。

中身は白紙の、ただの、見栄えのよい束だった。


なぜ、と問われれば、答えは簡単だった。


ケーニッヒスベルク家の本物の負債帳は「冊子」ではなかったから。



私は卵料理をゆっくり最後まで食べた。

今朝の味は昨日より、少しだけよく分かった。


「マルゴ。一つお願いがあるの」

「はい」

「私の私室の、書き物机のいちばん下の引き出しの奥に、隠し金庫が入れてあるはず。あれをこちらへ持ってきてもらえる。鍵は私が首から下げている、これ」


私はネックレスの紐を襟元から引き出した。

小さな、古びた鍵が一本下がっている。

嫁いだ朝に、母が私の首にかけてくれた鍵だった。「お前のものを、お前のためだけにしまっておく場所を、必ず一つ持ちなさい」と、母はそれだけ言った。


私はその教えを守ってきた。



午前の遅い時間、マルゴが布の包みを応接間の卓にそっと置いた。


私は布をゆっくりとほどいた。

中から出てきたのは、革の表紙の小ぶりな手帖が、いくつも重なっていた。

表紙はどれも、何の飾りもない、無地の黒い革。

それぞれの背表紙の隅に、小さく年号だけが、私の手で記されていた。


これが、ケーニッヒスベルク家の本物の負債帳だった。


家の応接間に立派な装丁で飾ってあった「負債帳」は、見せるための見栄だった。

本物は、私が嫁いで一年目の冬から、こうしてこっそり書きためてきた、ありふれた手帖の山だった。

誰が誰に、どんな借りを作ったか。誰が何をしてくれたか。誰の家のお子様の名前はなんとお呼びすればよいか。誰が何のお花を喜び、何のお茶を口に合わぬとおっしゃったか。

すべて、ここに書いた。

表の冊子に「形だけ」書き写すついでに、私はこちらに本気のことを書いていた。


なぜ二重にしていたのか、と問われれば、それも簡単だった。


姑がいつか、お読みになりたがるかもしれないから。

夫がいつか、お読みになるふりをなさるかもしれないから。

その時にお渡しする「形」は、別に必要だったから。


私は姑をお嫌いではなかった。

夫をお憎みではなかった。

ただ、あの方々の手の届くところに、本物を置いておきたくなかっただけだった。


——理由の出どころは、たぶん嫁いだ最初の冬の、あの一件。

姑が、私の書いた手紙の控えをご自分の名で送り直しておられた、あの冬。


私はあの冬から、自分の本気のものは自分の手の届くところにだけ置くようになった。

それだけのことだった。



私が手帖を一冊ぱらぱらとめくっていると、廊下の奥で、執務室の扉が開く音がした。

靴音が近づいてくる。

扉が叩かれる前に、私はマルゴに目で合図を送り、手帖を布で軽く覆った。


「——失礼。お入りしても」

「どうぞ、閣下」


アシェンバッハ公爵は、応接間に入ってきて、卓の上の布の包みに、ごく自然に視線を置かなかった。


置かないということを、私はもう覚え始めていた。

この方は、見ないでよいものを見ない方だった。


「奥様。本日、いくつか噂が入って参りました」

「監査局のことでございますわね」

「ご存じでしたか」

「マルゴから伺いましたわ」


公爵はわずかに頷いて、向かいに腰を下ろした。

彼の手の中には、薄い革張りの、別の手帖があった。

彼自身が日々開いているらしい、書き込みの多い手帖だった。


「貴国の監査局の手続きでは、開示請求から提出まで、おおむね日没までに、と聞いております」

「ええ。本日中に提出できなければ、家の信用が大きく傷つきます」

「ケーニッヒスベルク家には、その『提出できる中身』が——おありなのでしょうか」


私は答えなかった。

答えないということが答えだ、とこの方ならお分かりになる、と思った。


公爵は私の沈黙を聞いた。

聞いてから、自分の手帖を卓の上にゆっくりと開いた。


「これは——お見せするべきではないものです」


そう前置きして、彼は手帖の最初のほうのページを指で押さえた。


「我が国では、こうした記録は外交官の中でも、限られた者しか持ちません。

誰が誰に、どの言葉をいつかけたか。それをこちらの側でも書き留めております。

貴方様の十年のお仕事は——我が国では、これと同じものです」


私は目をその手帖に落とした。


整然と、年月日と人名と、出来事の短い記述が書かれていた。

公爵の字は、彼の話し方に似て無駄がなく、けれど、どの一行も丁寧だった。


そのうちの、いちばん最初のページのいちばん上の一行に。


——年号と、ある春の月の、ある夜の日付。

そしてその横に、ちいさく文字が二つ。


「E. K.」


私はその二文字を見た。

見たけれど、その意味を理解することを、自分の中でどこか避けた。

避けながら、それでも、目は二文字の上からすぐには離れなかった。


——Eと、K。


私の名の頭の文字と、嫁いでからの家名の頭の文字。

そう読めなくもなかった。


「閣下。これは——」


私は訊こうとした。


公爵は私の問いを、半分だけ遮った。

遮り方が優しかった。


「それはいずれ、お話します」

「いずれ、と」

「奥様がお受け取りになる準備ができた時に」


——準備、というのはなんだろう。


私はしばらく、何も言えなかった。

言えない代わりに、卓の下で自分の指を、もう一方の手で軽く握った。


公爵はそれから、話を本来の用件に戻した。


「奥様。今日の日没までの、開示請求の件です。私から貴国の監査局に、一筆申し添えてもよろしいでしょうか」

「閣下が、なぜ」

「ケーニッヒスベルク家の負債帳の真の管理者が、すでにご家中にいらっしゃらないことを、外交儀礼の観点から非公式にお知らせするだけです。

監査局は、その一筆をもって提出期限を延ばすことができます」

「……それは」

「貴方様の手を煩わせるものではありません」


私はしばらく考えた。


考えてから、首を横に振った。


「いえ。延ばさないで差し上げてくださいませ」


公爵は私を見た。


「延ばさなくよろしいので」

「ええ」


私は立ち上がり、窓辺へ歩いた。

庭の薔薇の蕾が、今朝よりまた少し膨らんでいた。


「あの方が——いえ、あのお家が、ご自分たちの足元に何があったのかをご自分の目でご覧になる時間が必要ですわ。

日没まで、というのはちょうどよろしいかと。

夕方のいちばん影の長くなる時間に、何が足りなかったかをお知りになるのが」


私は振り返らずに、それだけ言った。


背中で、公爵が息をひとつ吐いたのが分かった。

責める息でも、笑う息でもなかった。

何かを深く納得した時の息だった。


「——畏まりました」


それだけ言って、彼は立ち上がった。



午後の遅い時間、マルゴが再び噂を運んできた。


ケーニッヒスベルク家では、姑と新しい奥方様が、屋敷中をひっくり返しておられるとのことだった。

書斎の本棚を抜き出し、応接間の引き出しを開け、私室の鏡台の裏まで覗き込み、それでも、本物の負債帳らしき帳簿はどこからも出てこない。

姑は、私が嫁いだ最初の年の冬に、私の私室に何度かお入りになったことがある。

けれど、書き物机のいちばん下の引き出しに隠し金庫が仕込まれていることは、ご存じない。

ご存じないまま、その引き出しを、たぶん今日、初めて開けていらっしゃるのだろう。


そして夫は——マルゴの言うところによれば——昼からずっと、自室に籠もっていらっしゃるとのことだった。

誰ともお話しになっていない。


私は噂を聞きながら、窓辺の椅子に座っていた。

夕方の影が、芝の上にゆっくりと伸び始めていた。


夕方のいちばん影の長くなる時間。

私はその時間が、十年でいちばん好きだった。


その時間に、屋敷の応接間でようやくお一人で、紅茶を淹れる時間を、自分のために許していたから。

誰にも見られず、誰にも声をかけられず、ただ自分の手で、自分のためだけにお茶を淹れる、たったその時間。


——どうぞ、貴方様も。

私は、影の伸びていく芝を見ながらつぶやいた。

誰に向けたのかは、自分でも分からなかった。



その夜、私はなかなか眠れなかった。


眠れない、というほどではない。ただ、目を閉じても、瞼の裏に二つの文字が残っていた。


EとK。


きっと別の方の頭文字だろう、と私は何度も自分に言い聞かせた。

レーヴェンシュタインには、エで始まる名の方も、クで始まる家名の方も、いくらでもおられるはず。

偶然だ。

ただの偶然。


——けれど、もし。


もし、あの二文字が私の名であるとしたら。

あの方はいつから、それを書き留めておられたのだろう。

書き留めて、何をしておられたのだろう。


私は寝返りを打って、目を開けた。

天井の梁の影が、月の角度のせいで、いつもと少し違うかたちに見えた。


なんだか、心臓がいつもよりほんの少し忙しかった。

忙しい理由を、私はまだ自分に許していなかった。

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― 新着の感想 ―
負債帳という聞きなれない言葉が出てきてなんなんだろうかと思ってたら、備忘録なんですね。 ケーニッヒスベルク家に所属している間に作成したものであれば、ケーニッヒスベルク家の機密も含まれる可能性ありますし…
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