第四話 煙火の上がらない夜空
朝、私は珍しく何もすることがなかった。
これも慣れない。
十年、朝の最初の一時間は「今日の予定の確認」と「夫の身支度の差配」と「料理人への指示」と「招待状の返事」で埋まっていた。それが全部なくなった。
椅子に座って、テーブルクロスの縫い目をぼんやりなぞった。
縫い目が、思っていたより不揃いだった。
不揃いさが、なんだか気に入った。
「奥様、今朝は閣下がお出かけになります」
マルゴが朝食を運びながら告げた。
「どちらへ」
「宰相閣下のお屋敷で昼食会がございますそうで」
私は、卵料理にナイフを入れる手を止めた。
宰相閣下のお屋敷の昼食会。
その招待客の中に、わが国の宰相補佐——つまり私のかつての夫が含まれていることを、私は知っている。
席次表を作るのは、おそらく夫だ。
——余計なお世話、と昨夜、自分に言ったではないか。
私はナイフを動かし、卵を切り、口に運んだ。
味はよく分からなかった。
◇
廊下で、出かける支度を済ませたアシェンバッハ公爵と鉢合わせた。
外套を片手にかけ、髪を後ろで一度だけ撫でつけ直したらしい彼の身なりは、いつもよりもほんの少しだけ改まっていた。
よそのお屋敷で外交相手と顔を合わせる、ということを、彼が軽くは見ていない、ということだろう。
「お出かけでいらっしゃいますの」
「ええ。夕刻には戻ります」
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃい」と誰かに声をかけたのは、いつぶりだろう、と私は思った。
夫には、もう何年も言わなくなっていた。彼は私の声を聞いていなかったから。
公爵はわずかに会釈をして、玄関のほうへ歩き出した。
歩き出してから、一度だけ足を止めて振り返った。
「奥様」
「はい」
「もし、ご心配がおありでしたら——」
「心配など」
「……いえ。失礼いたしました」
それだけ言って、彼は今度こそ玄関を出た。
私は廊下に残された。
彼は何を言おうとしたのだろう、と思い、それから、なぜ私が「心配」と言われて反射的に否定したのだろう、と思い、答えが出る前に考えるのをやめた。
◇
午後の遅い時間、玄関の方で馬車の音がした。
私は応接間で本を開いていた、ふりをしていた。
本のページは、午後のうちに五ページしか進んでいなかった。何度同じ行を読んでも頭に入ってこなかった。
廊下に靴音が近づき、応接間の前で止まった。
「ただいま戻りました」
公爵の声だった。
いつもより、ほんの半音だけ低かった。
「お帰りなさいませ。……お疲れのご様子でいらっしゃいますわ」
「いえ」
それだけ言って、彼は奥の執務室へ入っていった。
扉が閉まり、しばらく間があり、それから——書類を机の上に投げ置いたような軽い音がした。
公爵は、書類を投げる方ではなかった。
廊下の窓辺の花を生ける、不器用で誠実な指を持つ方が、書類を投げる。
それだけのことが起きたのだろう。
私は本のページを、もう一度、最初から開き直した。
五ページ目は、やはり頭に入ってこなかった。
◇
夕刻、マルゴがそっと私の膝元に寄ってきた。
「奥様。ちょっとした噂を耳にいたしまして」
「噂」
「宰相閣下のお屋敷の昼食会で、隣国の大使閣下が席次表をご覧になって、お顔の色をお変えになったそうで」
私は本を閉じた。
「誰の席次表」
「それが——わが国の新しい宰相補佐の方がお作りになったとか」
新しい宰相補佐。
すなわち、レオポルト。
私はしばらく、何も言わなかった。
頭の中の帳簿が勝手に一枚の紙を開いた。
私が嫁いで三年目の春に、隣国レーヴェンシュタインの宗派表を、夫の執務机の二段目の引き出しに、自分で書き写して入れておいた紙。
あの紙はまだ、執務机の中にあるはずだった。
けれど、夫はあの引き出しを開けたことがあったのだろうか。
——なかったのだろう。
たぶん、一度も。
私は膝の上で、両手を組み直した。
組み直したのは、手のひらが急に冷たかったからだ。
「マルゴ」
「はい」
「閣下にお茶をお持ちして差し上げて。少し濃いめに」
「畏まりました」
マルゴが下がってから、私は窓辺に立った。
庭の薔薇は、昨日より少しだけ蕾が膨らんでいた。
庭師は今日も同じ手つきで、蔓を結び直しているのだろう、と思った。
◇
夜が来た。
私は客間の窓辺の椅子に、外套を肩にかけて座っていた。
窓の向こうは王都の方角だった。
ここからは夜空の半分が見える。
——今夜、上がるはずだった。
煙火が。
ケーニッヒスベルク侯爵家、新しい奥方様のお披露目の夜会。
私は嫁いで以来、その夜会の段取りを毎年、自分で組んできた。今年もそのつもりでいた。
段取りの中には、夜の半ばに屋敷の庭から、王都の北の空に煙火を上げる、という項目があった。
ケーニッヒスベルク家の、ささやかな伝統だった。
姑が嫁いでこられた頃から続く、ささやかな見栄。
私は窓辺で待った。
夜空はずっと暗いままだった。
夜半になっても。
夜半を過ぎても。
煙火は上がらなかった。
私は外套の前を合わせ直した。
不思議と、笑いが出そうになった。
笑いというより、なんだろう、もっと別の、息のような、呼吸のようなものが。
◇
深夜、扉が控えめに叩かれた。
マルゴだった。後ろに、見覚えのある老人が立っていた。
ケーニッヒスベルク家の家令、オットーだった。
帽子を両手で握りしめ、外套の肩には王都の夜の冷えがまだ載っていた。
「奥様。夜分に申し訳ございません」
「オットー。よくいらしてくださったわ」
「お屋敷の方が——本日、夜会の客人がお一人もいらっしゃいませんでした」
私は、何度か瞬きをした。
「お一人も」
「お招き状を差し上げたお家、ことごとく。お返事の手紙が本日になってから続々と届きまして。いずれも『先約がございまして』と」
「先約」
「全員、同じ文言でございました」
私は窓の外を見た。
夜空は暗いままだった。
——皆様、お心の中に、十年分の、私との取り決めがある。
それを、新しい奥方様はご存じない。
ご存じないまま、お招き状を出してしまわれた。
それは、社交界においては「お一人もお越しになりません」という意味だった。
私はそのことを知っている。
知っていたからこそ、私が手配する時には、毎年必ず、お一人ずつに別便で、簡単な短信を添えていた。
「貴方様の去年のお気遣いに、今年もお礼を申し上げます」と。
それが招待状の有効化の儀式だった。
誰にも教えていない、私だけの十年の習慣だった。
オットーは、帽子を両手で握りしめたまま項垂れていた。
「奥様。——お屋敷は、もう奥様のものではないと存じております。けれど、本日のことは奥様にだけお知らせしたく、参りました」
「ありがとう、オットー」
ありがとう、と、今度はすんなり口にできた。
◇
オットーが下がってから、私はようやく奥の執務室の扉を、控えめに叩いた。
「閣下。——夜分に申し訳ございません」
「奥様。お入りください」
入ると、執務室の机の上には、昼間の書類はもう片付いていた。
代わりに、大使館の業務日誌が開いて置かれていた。
公爵はペンを置き、立ち上がった。
私は立ったままお話しした。
「本日、ケーニッヒスベルク家の夜会に、お客様がお一人もいらっしゃらなかったそうでございます」
「……」
「それは——私のせい、なのでしょうか」
私は自分でも、なぜそれをこの方に問うたのか分からなかった。
分からなかったが、口はもう動いていた。
公爵はしばらく、私を見ていた。
それから、ごく短く答えた。
「当然です」
私は目を見開いた。
「当然、と」
「奥様が十年かけて積まれたものを、ご存じない方がお引き継ぎなく、招待状をお出しになった。
我が国でも貴国でも、それはお一人も来なくて当然のことです」
短い、短すぎる答えだった。
けれど、その短さの中に、私の十年が、ぜんぶ入っていた。
——ああ。
私は口の端が勝手に動くのを感じた。
十年間、形だけ作ってきた笑みではない、別のかたちの何かが、頬の筋肉を内側から押し上げていた。
私は笑った、と思う。
たぶん、本当に笑った。
公爵は、私の顔を見て——なぜか、わずかに目を逸らした。
逸らしたあと、もう一度視線を戻すまでに、いつもよりほんの少しだけ間があった。
「……失礼。続けてください」
「いえ。もう十分でございます」
私は一礼し、執務室を出た。
扉を閉めながら、自分の頬に手の甲を当てた。
頬の筋肉がまだ、内側から温かかった。
◇
その夜、私はベッドに入ってすぐに眠った。
朝、目を覚ました時、窓のカーテンはもう開いていた。
光の中で、マルゴが私の顔を見て、急に目元を押さえた。
「マルゴ。どうかしたの」
「いえ。……奥様のお眠りになっているお顔を、十年ぶりに拝見いたしましたので」
私はゆっくり身を起こした。
シーツの匂いが、いつもと違って感じられた。
窓の向こう、王都の北の空は、もう青く澄んでいた。
昨夜、煙火が上がるはずだった、その同じ空が。




