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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第四話 煙火の上がらない夜空

朝、私は珍しく何もすることがなかった。


これも慣れない。

十年、朝の最初の一時間は「今日の予定の確認」と「夫の身支度の差配」と「料理人への指示」と「招待状の返事」で埋まっていた。それが全部なくなった。

椅子に座って、テーブルクロスの縫い目をぼんやりなぞった。

縫い目が、思っていたより不揃いだった。

不揃いさが、なんだか気に入った。


「奥様、今朝は閣下がお出かけになります」

マルゴが朝食を運びながら告げた。

「どちらへ」

「宰相閣下のお屋敷で昼食会がございますそうで」


私は、卵料理にナイフを入れる手を止めた。


宰相閣下のお屋敷の昼食会。

その招待客の中に、わが国の宰相補佐——つまり私のかつての夫が含まれていることを、私は知っている。

席次表を作るのは、おそらく夫だ。


——余計なお世話、と昨夜、自分に言ったではないか。


私はナイフを動かし、卵を切り、口に運んだ。

味はよく分からなかった。



廊下で、出かける支度を済ませたアシェンバッハ公爵と鉢合わせた。


外套を片手にかけ、髪を後ろで一度だけ撫でつけ直したらしい彼の身なりは、いつもよりもほんの少しだけ改まっていた。

よそのお屋敷で外交相手と顔を合わせる、ということを、彼が軽くは見ていない、ということだろう。


「お出かけでいらっしゃいますの」

「ええ。夕刻には戻ります」

「いってらっしゃいませ」


「いってらっしゃい」と誰かに声をかけたのは、いつぶりだろう、と私は思った。

夫には、もう何年も言わなくなっていた。彼は私の声を聞いていなかったから。


公爵はわずかに会釈をして、玄関のほうへ歩き出した。

歩き出してから、一度だけ足を止めて振り返った。


「奥様」

「はい」

「もし、ご心配がおありでしたら——」

「心配など」

「……いえ。失礼いたしました」


それだけ言って、彼は今度こそ玄関を出た。


私は廊下に残された。

彼は何を言おうとしたのだろう、と思い、それから、なぜ私が「心配」と言われて反射的に否定したのだろう、と思い、答えが出る前に考えるのをやめた。



午後の遅い時間、玄関の方で馬車の音がした。


私は応接間で本を開いていた、ふりをしていた。

本のページは、午後のうちに五ページしか進んでいなかった。何度同じ行を読んでも頭に入ってこなかった。


廊下に靴音が近づき、応接間の前で止まった。


「ただいま戻りました」

公爵の声だった。

いつもより、ほんの半音だけ低かった。


「お帰りなさいませ。……お疲れのご様子でいらっしゃいますわ」

「いえ」


それだけ言って、彼は奥の執務室へ入っていった。

扉が閉まり、しばらく間があり、それから——書類を机の上に投げ置いたような軽い音がした。


公爵は、書類を投げる方ではなかった。

廊下の窓辺の花を生ける、不器用で誠実な指を持つ方が、書類を投げる。

それだけのことが起きたのだろう。


私は本のページを、もう一度、最初から開き直した。

五ページ目は、やはり頭に入ってこなかった。



夕刻、マルゴがそっと私の膝元に寄ってきた。


「奥様。ちょっとした噂を耳にいたしまして」

「噂」

「宰相閣下のお屋敷の昼食会で、隣国の大使閣下が席次表をご覧になって、お顔の色をお変えになったそうで」


私は本を閉じた。


「誰の席次表」

「それが——わが国の新しい宰相補佐の方がお作りになったとか」


新しい宰相補佐。

すなわち、レオポルト。


私はしばらく、何も言わなかった。


頭の中の帳簿が勝手に一枚の紙を開いた。

私が嫁いで三年目の春に、隣国レーヴェンシュタインの宗派表を、夫の執務机の二段目の引き出しに、自分で書き写して入れておいた紙。

あの紙はまだ、執務机の中にあるはずだった。

けれど、夫はあの引き出しを開けたことがあったのだろうか。


——なかったのだろう。

たぶん、一度も。


私は膝の上で、両手を組み直した。

組み直したのは、手のひらが急に冷たかったからだ。


「マルゴ」

「はい」

「閣下にお茶をお持ちして差し上げて。少し濃いめに」

「畏まりました」


マルゴが下がってから、私は窓辺に立った。

庭の薔薇は、昨日より少しだけ蕾が膨らんでいた。

庭師は今日も同じ手つきで、蔓を結び直しているのだろう、と思った。



夜が来た。


私は客間の窓辺の椅子に、外套を肩にかけて座っていた。

窓の向こうは王都の方角だった。

ここからは夜空の半分が見える。


——今夜、上がるはずだった。


煙火が。


ケーニッヒスベルク侯爵家、新しい奥方様のお披露目の夜会。

私は嫁いで以来、その夜会の段取りを毎年、自分で組んできた。今年もそのつもりでいた。

段取りの中には、夜の半ばに屋敷の庭から、王都の北の空に煙火を上げる、という項目があった。

ケーニッヒスベルク家の、ささやかな伝統だった。

姑が嫁いでこられた頃から続く、ささやかな見栄。


私は窓辺で待った。

夜空はずっと暗いままだった。


夜半になっても。

夜半を過ぎても。


煙火は上がらなかった。


私は外套の前を合わせ直した。

不思議と、笑いが出そうになった。

笑いというより、なんだろう、もっと別の、息のような、呼吸のようなものが。



深夜、扉が控えめに叩かれた。


マルゴだった。後ろに、見覚えのある老人が立っていた。


ケーニッヒスベルク家の家令、オットーだった。

帽子を両手で握りしめ、外套の肩には王都の夜の冷えがまだ載っていた。


「奥様。夜分に申し訳ございません」

「オットー。よくいらしてくださったわ」

「お屋敷の方が——本日、夜会の客人がお一人もいらっしゃいませんでした」


私は、何度か瞬きをした。


「お一人も」

「お招き状を差し上げたお家、ことごとく。お返事の手紙が本日になってから続々と届きまして。いずれも『先約がございまして』と」

「先約」

「全員、同じ文言でございました」


私は窓の外を見た。

夜空は暗いままだった。


——皆様、お心の中に、十年分の、私との取り決めがある。

それを、新しい奥方様はご存じない。

ご存じないまま、お招き状を出してしまわれた。

それは、社交界においては「お一人もお越しになりません」という意味だった。

私はそのことを知っている。

知っていたからこそ、私が手配する時には、毎年必ず、お一人ずつに別便で、簡単な短信を添えていた。

「貴方様の去年のお気遣いに、今年もお礼を申し上げます」と。

それが招待状の有効化の儀式だった。

誰にも教えていない、私だけの十年の習慣だった。


オットーは、帽子を両手で握りしめたまま項垂れていた。


「奥様。——お屋敷は、もう奥様のものではないと存じております。けれど、本日のことは奥様にだけお知らせしたく、参りました」

「ありがとう、オットー」


ありがとう、と、今度はすんなり口にできた。



オットーが下がってから、私はようやく奥の執務室の扉を、控えめに叩いた。


「閣下。——夜分に申し訳ございません」

「奥様。お入りください」


入ると、執務室の机の上には、昼間の書類はもう片付いていた。

代わりに、大使館の業務日誌が開いて置かれていた。

公爵はペンを置き、立ち上がった。


私は立ったままお話しした。


「本日、ケーニッヒスベルク家の夜会に、お客様がお一人もいらっしゃらなかったそうでございます」

「……」

「それは——私のせい、なのでしょうか」


私は自分でも、なぜそれをこの方に問うたのか分からなかった。

分からなかったが、口はもう動いていた。


公爵はしばらく、私を見ていた。

それから、ごく短く答えた。


「当然です」


私は目を見開いた。


「当然、と」

「奥様が十年かけて積まれたものを、ご存じない方がお引き継ぎなく、招待状をお出しになった。

我が国でも貴国でも、それはお一人も来なくて当然のことです」


短い、短すぎる答えだった。

けれど、その短さの中に、私の十年が、ぜんぶ入っていた。


——ああ。


私は口の端が勝手に動くのを感じた。

十年間、形だけ作ってきた笑みではない、別のかたちの何かが、頬の筋肉を内側から押し上げていた。


私は笑った、と思う。

たぶん、本当に笑った。


公爵は、私の顔を見て——なぜか、わずかに目を逸らした。

逸らしたあと、もう一度視線を戻すまでに、いつもよりほんの少しだけ間があった。


「……失礼。続けてください」

「いえ。もう十分でございます」


私は一礼し、執務室を出た。

扉を閉めながら、自分の頬に手の甲を当てた。

頬の筋肉がまだ、内側から温かかった。



その夜、私はベッドに入ってすぐに眠った。


朝、目を覚ました時、窓のカーテンはもう開いていた。

光の中で、マルゴが私の顔を見て、急に目元を押さえた。


「マルゴ。どうかしたの」

「いえ。……奥様のお眠りになっているお顔を、十年ぶりに拝見いたしましたので」


私はゆっくり身を起こした。

シーツの匂いが、いつもと違って感じられた。


窓の向こう、王都の北の空は、もう青く澄んでいた。

昨夜、煙火が上がるはずだった、その同じ空が。

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