第三話 誰も「ありがとう」とは言わなかった
朝、目を覚ました時、私はまず自分の喉が渇いていることに気づいた。
大使館の客間のベッドは、慣れない柔らかさだった。
身を起こすと、レースのカーテンの隙間から、薄い朝の光が床に細い帯を引いている。光の帯の中を埃がゆっくり泳いでいた。
私はしばらく、その埃を眺めていた。
朝に光の中の埃を眺めるなど、十年やったことがなかった。
朝は、起きた瞬間から動かなければならないものだった、ずっと。
「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうからマルゴの声がした。
私はようやく、自分が裸足のままシーツの上に座り続けていたことに気づき、慌てて立ち上がった。
◇
マルゴが運んできた朝食は、焼き立ての白いパンと、温かな卵料理と、紅茶だった。
「奥様、今朝の紅茶はお好みより少しだけ薄めに淹れてございます」
「あら。なぜ」
「アシェンバッハ閣下のお言いつけで」
私はカップを口に運ぶ手を止めた。
「閣下が」
「奥様は近頃よくお眠りになれていないご様子だから、淡めにお淹れするように、と」
私は紅茶の表面を見下ろした。
湯気が鼻先を控えめに撫でていく。
——なぜご存知なのかしら。
私はこの大使館に来てから、まだ誰にも自分の睡眠について話していない。話すような相手もいない。
けれど、考えてみれば、目の下の翳りは隠せるものではなかった。あの方はそれを、ただ見ておられたのだろう。
お礼を申し上げなければ。
そう思った。
思ったが、口には出せなかった。
お礼を申し上げるためには、お礼を申し上げる練習が要るのだ。私はその時、ようやくそれに気づいた。
◇
朝食のあと、私は廊下を特に当てもなく歩いた。
大使館の建物は、思っていたよりも質素だった。レーヴェンシュタインは富裕な国だと聞いていたが、ここの調度には、見せびらかすためのものが一つもない。代わりに、廊下の窓辺には、季節の花が、生けた人の癖の出たやり方で挿してある。
誰が生けたのだろう、と私は思った。職業の花職人ではない。手の動かし方が、もう少し不器用で、誠実だった。
その花のうちの一輪が傾いでいた。
私は何の気なしに、その茎を指で軽く立て直した。それから、隣の白い小花の角度をほんの少しだけ整えた。
癖、だった。
十年、屋敷に飾られる花を毎朝、私が直していた。誰にも頼まれず、誰にも気づかれず、ただ自分の目に映るものが整っていないと落ち着かなかった。
「——ありがとうございます」
声がすぐ後ろでした。
私は花瓶に伸ばしていた指を、空中で止めた。
振り返ると、廊下の少し離れたところに、アシェンバッハ公爵が立っていた。
いつからそこにいらしたのだろう。
彼の目は、まず花瓶を見ていた。それから、私の指先を見ていた。最後に、私の顔を見た。
「あれは私が朝に生けたものでして。傾いでいるのが気にかかっておりました。お直しいただいて助かりました」
ありがとう、と。
——ありがとう。
私はその言葉が、自分の耳にどう届いたのか、しばらく分からなかった。
夫は、私が席次表を組み上げても、当然のように頷くだけだった。
姑は、私が代筆した手紙が届けば、「私が書いたのよ」と口にして満足された。
料理人も使用人も、私を畏れる方が先にあって、ありがとう、を、口に出すより前に呑み込んだ。
誰も悪くない。それが侯爵夫人というものに対する、正しい振る舞い方だった。
ただ私は、ずっとその言葉をもらっていなかった。
そのことに、今、私は十年経ってようやく気づいた。
「……いえ」
ようやく、私はそれだけ言った。
口の端が震えそうになるのを、十年で鍛えた笑みの筋肉でなんとか押さえた。
公爵は私の顔を見て——何も訊かなかった。
代わりに、ごく自然な動作で廊下の先へ視線を向けた。
「失礼。書類の確認がございますので」
「あ、はい。どうぞ」
彼は、私の戸惑いを見なかった。
見ないでくれた。
私は廊下に一人残された。
心臓が、よく分からない速さで一度だけ強く打った。
窓辺の花が、私が直したばかりの角度で紫に咲いていた。
◇ ◇ ◇
——ちょうどその頃、王宮の宰相補佐執務室では。
レオポルト・フォン・ケーニッヒスベルク侯爵は、机の上に積まれた書類の山を、初めて正面から見つめていた。
席次表の依頼書、各国大使の出席名簿、宗教関係の覚え書き、料理人との取り決めの控え、過去十年分の会食記録。
どこから手をつければよいのか、分からなかった。
書類は、生まれて初めて見るものではない。
妻が「お目を通してくださいませ」と言って毎朝置いていく書類を、彼は形だけ眺めていた。眺めて、頷いて、押印して、それで仕事は済んでいた。
——この一枚一枚を、あの女が書いていたのか。
その想像が彼の頭を、ほんの一瞬よぎった。
よぎったが、すぐに別の声がそれを押し戻した。
(妻の手など借りるものか。私の仕事だ)
レオポルトは手近な紙を引き寄せた。
明日、宰相が私邸に、レーヴェンシュタイン公国の大使を招くことになっている。その席次表の作成。
名簿を開いた。出席者の名が整然と並んでいる。
名前は読める。だが、その人物がどの宗派に属し、どの家と借りがあり、どの席に座らせれば顔を立てたことになるのかは、まったく分からなかった。
ペンを取った。
ペン先が紙の上で、しばらく止まった。
(……まあいい。形は整えればよい。中身などは空気のようなものだ)
彼はそう自分に言い聞かせて、適当な順に名前を並べていった。
宰相の左隣に、聖アグネス派の枢機卿の名を置いた。
枢機卿、という肩書きが立派なのだから、宰相の隣でちょうど良い、と彼は思った。
それで席次表は完成した、ことになった。
完成した席次表の上に、ペン先からインクが一滴落ちた。
彼はそれを布で拭おうとして、布が見つからず、結局、指の腹で拭い取った。
指先が黒く汚れた。
◇ ◇ ◇
午後、私はまた大使館の廊下を歩いていた。
ここで一人で過ごす時間というのは、思いのほか長い。
私は十年、自分の部屋で一人になることが、ほとんどなかった。誰かを迎える支度か、誰かに送る手紙か、何かを必ずしていた。
何もしなくていい時間は、最初の朝は喜び、昼には戸惑い、午後には少し怖かった。
廊下の途中に、扉が一つ半分だけ開いていた。
私は通り過ぎようとして、足を止めた。
扉の隙間から、机の上が見えた。
無意識に視線が、その机の上の一点に吸い寄せられた。
書類の束のいちばん上に。
見覚えのある一枚の紙。
象牙色の招待状。
角の縁取りがわずかに古びている。だが、形は間違いない。
私が社交界に初めて出た夜の、王宮主催の春の夜会の招待状だった。
——なぜ。
私は廊下の真ん中で立ち尽くした。
あの夜会は、私が二十一になった春。
嫁いでまだ三年目の頃。
その夜の招待状が、なぜレーヴェンシュタイン公国大使の執務室の机の上に。
「奥様」
声が後ろからした。
振り返ると、アシェンバッハ公爵が廊下の端に立っていた。
彼は私の視線の先を、ごく自然に追わなかった。
追わないということ自体が、不自然なほど自然だった。
「失礼。お通りの邪魔をいたしました」
私はそう言って廊下の脇に身を寄せた。
公爵は会釈をし、執務室に入り、扉を静かに閉めた。
閉まる前の最後の一瞬。
彼の左手の、薬指の根元の指輪が、廊下の光にちらりと光った。
内側に何か小さな彫りが入っているように見えた。
私は廊下に一人残された。
紫の花がまだ窓辺で咲いていた。
——きっと見間違いだ。
私は自分にそう言った。
古い招待状など、外交官ならばどこからでも手に入れる。何の意味もない。
そう、言い聞かせた。
◇
その夜、王都の北で大使館の灯りが落ちる頃。
私はベッドに入る前に、ふと自分の左の薬指を見た。
指輪はもう外している。十年はめていた跡だけが、薄く残っていた。
跡は、思っていたより深かった。
そして、思っていたよりすぐには消えそうになかった。
私はその跡を、人差し指でゆっくりとなぞった。
なぞりながら、なぜか頭の中で、別のことを考えていた。
レーヴェンシュタインの大使閣下が明日、わが国の宰相のお屋敷で会食をされるという話を、マルゴが噂で聞いてきた。
席次表は誰が作るのだろう。
あの方の好みを、誰が覚えているのだろう。
——余計なお世話だわ。
私は布団を引き上げ、目を閉じた。
けれど、目を閉じた瞼の裏に、なぜか、机の上の古い招待状の象牙色だけが、しばらく消えなかった。




