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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第三話 誰も「ありがとう」とは言わなかった

朝、目を覚ました時、私はまず自分の喉が渇いていることに気づいた。


大使館の客間のベッドは、慣れない柔らかさだった。

身を起こすと、レースのカーテンの隙間から、薄い朝の光が床に細い帯を引いている。光の帯の中を埃がゆっくり泳いでいた。

私はしばらく、その埃を眺めていた。


朝に光の中の埃を眺めるなど、十年やったことがなかった。

朝は、起きた瞬間から動かなければならないものだった、ずっと。


「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」


扉の向こうからマルゴの声がした。

私はようやく、自分が裸足のままシーツの上に座り続けていたことに気づき、慌てて立ち上がった。



マルゴが運んできた朝食は、焼き立ての白いパンと、温かな卵料理と、紅茶だった。


「奥様、今朝の紅茶はお好みより少しだけ薄めに淹れてございます」

「あら。なぜ」

「アシェンバッハ閣下のお言いつけで」


私はカップを口に運ぶ手を止めた。


「閣下が」

「奥様は近頃よくお眠りになれていないご様子だから、淡めにお淹れするように、と」


私は紅茶の表面を見下ろした。

湯気が鼻先を控えめに撫でていく。


——なぜご存知なのかしら。


私はこの大使館に来てから、まだ誰にも自分の睡眠について話していない。話すような相手もいない。

けれど、考えてみれば、目の下の翳りは隠せるものではなかった。あの方はそれを、ただ見ておられたのだろう。


お礼を申し上げなければ。

そう思った。

思ったが、口には出せなかった。

お礼を申し上げるためには、お礼を申し上げる練習が要るのだ。私はその時、ようやくそれに気づいた。



朝食のあと、私は廊下を特に当てもなく歩いた。


大使館の建物は、思っていたよりも質素だった。レーヴェンシュタインは富裕な国だと聞いていたが、ここの調度には、見せびらかすためのものが一つもない。代わりに、廊下の窓辺には、季節の花が、生けた人の癖の出たやり方で挿してある。

誰が生けたのだろう、と私は思った。職業の花職人ではない。手の動かし方が、もう少し不器用で、誠実だった。


その花のうちの一輪が傾いでいた。


私は何の気なしに、その茎を指で軽く立て直した。それから、隣の白い小花の角度をほんの少しだけ整えた。

癖、だった。

十年、屋敷に飾られる花を毎朝、私が直していた。誰にも頼まれず、誰にも気づかれず、ただ自分の目に映るものが整っていないと落ち着かなかった。


「——ありがとうございます」


声がすぐ後ろでした。


私は花瓶に伸ばしていた指を、空中で止めた。


振り返ると、廊下の少し離れたところに、アシェンバッハ公爵が立っていた。

いつからそこにいらしたのだろう。


彼の目は、まず花瓶を見ていた。それから、私の指先を見ていた。最後に、私の顔を見た。


「あれは私が朝に生けたものでして。傾いでいるのが気にかかっておりました。お直しいただいて助かりました」


ありがとう、と。


——ありがとう。


私はその言葉が、自分の耳にどう届いたのか、しばらく分からなかった。


夫は、私が席次表を組み上げても、当然のように頷くだけだった。

姑は、私が代筆した手紙が届けば、「私が書いたのよ」と口にして満足された。

料理人も使用人も、私を畏れる方が先にあって、ありがとう、を、口に出すより前に呑み込んだ。


誰も悪くない。それが侯爵夫人というものに対する、正しい振る舞い方だった。


ただ私は、ずっとその言葉をもらっていなかった。

そのことに、今、私は十年経ってようやく気づいた。


「……いえ」


ようやく、私はそれだけ言った。

口の端が震えそうになるのを、十年で鍛えた笑みの筋肉でなんとか押さえた。


公爵は私の顔を見て——何も訊かなかった。

代わりに、ごく自然な動作で廊下の先へ視線を向けた。


「失礼。書類の確認がございますので」

「あ、はい。どうぞ」


彼は、私の戸惑いを見なかった。

見ないでくれた。


私は廊下に一人残された。

心臓が、よく分からない速さで一度だけ強く打った。

窓辺の花が、私が直したばかりの角度で紫に咲いていた。


◇ ◇ ◇


——ちょうどその頃、王宮の宰相補佐執務室では。


レオポルト・フォン・ケーニッヒスベルク侯爵は、机の上に積まれた書類の山を、初めて正面から見つめていた。


席次表の依頼書、各国大使の出席名簿、宗教関係の覚え書き、料理人との取り決めの控え、過去十年分の会食記録。

どこから手をつければよいのか、分からなかった。


書類は、生まれて初めて見るものではない。

妻が「お目を通してくださいませ」と言って毎朝置いていく書類を、彼は形だけ眺めていた。眺めて、頷いて、押印して、それで仕事は済んでいた。


——この一枚一枚を、あの女が書いていたのか。


その想像が彼の頭を、ほんの一瞬よぎった。

よぎったが、すぐに別の声がそれを押し戻した。


(妻の手など借りるものか。私の仕事だ)


レオポルトは手近な紙を引き寄せた。

明日、宰相が私邸に、レーヴェンシュタイン公国の大使を招くことになっている。その席次表の作成。

名簿を開いた。出席者の名が整然と並んでいる。

名前は読める。だが、その人物がどの宗派に属し、どの家と借りがあり、どの席に座らせれば顔を立てたことになるのかは、まったく分からなかった。


ペンを取った。

ペン先が紙の上で、しばらく止まった。


(……まあいい。形は整えればよい。中身などは空気のようなものだ)


彼はそう自分に言い聞かせて、適当な順に名前を並べていった。

宰相の左隣に、聖アグネス派の枢機卿の名を置いた。

枢機卿、という肩書きが立派なのだから、宰相の隣でちょうど良い、と彼は思った。


それで席次表は完成した、ことになった。

完成した席次表の上に、ペン先からインクが一滴落ちた。

彼はそれを布で拭おうとして、布が見つからず、結局、指の腹で拭い取った。

指先が黒く汚れた。


◇ ◇ ◇


午後、私はまた大使館の廊下を歩いていた。


ここで一人で過ごす時間というのは、思いのほか長い。

私は十年、自分の部屋で一人になることが、ほとんどなかった。誰かを迎える支度か、誰かに送る手紙か、何かを必ずしていた。

何もしなくていい時間は、最初の朝は喜び、昼には戸惑い、午後には少し怖かった。


廊下の途中に、扉が一つ半分だけ開いていた。


私は通り過ぎようとして、足を止めた。

扉の隙間から、机の上が見えた。

無意識に視線が、その机の上の一点に吸い寄せられた。


書類の束のいちばん上に。


見覚えのある一枚の紙。


象牙色の招待状。

角の縁取りがわずかに古びている。だが、形は間違いない。

私が社交界に初めて出た夜の、王宮主催の春の夜会の招待状だった。


——なぜ。


私は廊下の真ん中で立ち尽くした。

あの夜会は、私が二十一になった春。

嫁いでまだ三年目の頃。


その夜の招待状が、なぜレーヴェンシュタイン公国大使の執務室の机の上に。


「奥様」


声が後ろからした。

振り返ると、アシェンバッハ公爵が廊下の端に立っていた。

彼は私の視線の先を、ごく自然に追わなかった。

追わないということ自体が、不自然なほど自然だった。


「失礼。お通りの邪魔をいたしました」


私はそう言って廊下の脇に身を寄せた。

公爵は会釈をし、執務室に入り、扉を静かに閉めた。

閉まる前の最後の一瞬。

彼の左手の、薬指の根元の指輪が、廊下の光にちらりと光った。

内側に何か小さな彫りが入っているように見えた。


私は廊下に一人残された。

紫の花がまだ窓辺で咲いていた。


——きっと見間違いだ。

私は自分にそう言った。

古い招待状など、外交官ならばどこからでも手に入れる。何の意味もない。


そう、言い聞かせた。



その夜、王都の北で大使館の灯りが落ちる頃。

私はベッドに入る前に、ふと自分の左の薬指を見た。

指輪はもう外している。十年はめていた跡だけが、薄く残っていた。


跡は、思っていたより深かった。

そして、思っていたよりすぐには消えそうになかった。


私はその跡を、人差し指でゆっくりとなぞった。

なぞりながら、なぜか頭の中で、別のことを考えていた。


レーヴェンシュタインの大使閣下が明日、わが国の宰相のお屋敷で会食をされるという話を、マルゴが噂で聞いてきた。

席次表は誰が作るのだろう。

あの方の好みを、誰が覚えているのだろう。


——余計なお世話だわ。


私は布団を引き上げ、目を閉じた。


けれど、目を閉じた瞼の裏に、なぜか、机の上の古い招待状の象牙色だけが、しばらく消えなかった。

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