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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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第二話 知らない国の馬車

私の朝食の紅茶が、十年で初めて温かかった。


カップを両手で包み、湯気の向こうに見慣れない天井を眺める。

ヴェントラント公爵邸の客間。私が嫁ぐ前に使っていた部屋ではなく、来客用の一室だった。

それが何を意味するのか、私は紅茶を一口含む前に理解した。


実家には、もう私の部屋はない。

当然と言えば当然のことだった。


「お早うございます、エレオノーラ」


兄の声がした。

扉を開ける前にノックを忘れない人だった、昔から。けれど今朝は、そのノックの音がお客様に対するそれだった。


「お兄様」

私は紅茶を置き、立ち上がって礼をした。十年前、嫁ぐ日の朝にも、こうして礼をした気がする。


兄は私の向かいに腰を下ろし、しばらく黙ってからゆっくり口を開いた。


「昨夜のことは聞いた。……父上がご存命であれば、何とおっしゃったろうな」

「父上は何もおっしゃいませんわ。お腹立ちになるか、私を不甲斐ないとお笑いになるか、どちらかでしょう」

「お前は、いつもそうだ」


兄は溜息をつき、それから少し言葉を選ぶ間を置いた。

私はその間の長さで用件を察した。


「お兄様。私を長くお屋敷に置くわけには参りませんわよね」

「……すまない」


それだけ言って、兄は視線を窓のほうへ逃がした。

ヴェントラント家は、王家の傍系だ。離縁同然の妹を屋敷に置けば、社交界の風向きが一夜で変わる。それは頭の中の帳簿を持つ私が、誰よりよく知っている。


「分かっておりますわ。今日中に出て参ります」

「行く当てはあるのか」

「ございません。けれど——」


そう言いかけたところで、扉の外が騒がしくなった。



「お嬢様、お嬢様。表に、見たこともない馬車が」


老いた侍従が息を切らして駆け込んできた。

兄が眉をひそめる。私も眉をひそめた。誰かに迎えを呼んだ覚えはない。


「紋章は」

「それが——どう申し上げればよいのか。レーヴェンシュタイン公国の、大使館の」


私と兄は同時に同じ顔をした、と思う。

レーヴェンシュタイン公国は、わが国と長く冷えた関係にある。その大使館の馬車が王都の貴族邸の前に止まる用件など、本来ならば国家事案だ。


「紹介状は」

「奥様宛のものを、御者がお持ちでございます」


私宛、と聞いて兄が私を見た。

私は心当たりのなさを示すために、ただ首を傾げた。


——いえ。

心当たりがひとつだけあった。


昨夜、廊下の柱の陰に立っていた長身の影。

あの方は確か——アシェンバッハ公爵。



馬車は、装飾を抑えた黒塗りだった。

レーヴェンシュタインの紋章は、扉の内側に控えめに彫り込まれているだけ。


「奥様。お足元、お気をつけて」

御者の言葉も丁寧だった。

私を「奥様」と呼ぶことにためらいがない。


紹介状には整った字で、こうあった。


『——お話したき儀がございます。御身の安全と、御都合を最優先に。お返事は問いません。お乗りいただいたことを、お返事といたします。 アシェンバッハ』


短い。短すぎる。

返事を問わない、という一文に、私は少しだけ警戒を解いた。

返事を強いる男は信用してはいけない。十年で覚えたことの一つだ。


「お兄様」

私は振り返り、玄関の柱の陰に立つ兄に静かに告げた。

「貴方様の家の名はお守りいたしますわ。私は今日、知らない国へ参ります」


兄は何か言おうとして、結局、何も言わなかった。

それでよかった。

言わせない方が兄のためにも私のためにも優しかった。


私は馬車に乗った。



座席には、薄手の毛布が一枚畳んで置かれていた。

その隣に、銀の水差しと、小さな焼き菓子の包み。


包みを解いた瞬間、私は手を止めた。


胡桃のシュネッケ。


シナモンと胡桃を渦巻きに巻き込んだ、レーヴェンシュタインの古い焼き菓子。

私はこれを、生涯で一度だけ口にしたことがある。


七年前の春。外国の客人を招いた小さな夜会の席で。

隣国の老侯爵が「故郷の味だ」と言って、私に勧めてくださった。私は形ばかりに口に運び——けれど思いがけず本当に美味しくて。


「まあ、美味しいこと」


その一言を、私は確かに口にしたはずだ。

誰に向けて言ったわけでもない。隣にいたのが誰だったかも、もう思い出せない。


なのに、なぜ。


馬車の窓の外を、見慣れた王都の通りが流れていく。

私は焼き菓子をひとつだけゆっくり口に運んだ。

シナモンの香りが、七年前とまったく同じだった。



レーヴェンシュタイン公国大使館は、王都の北の外れに静かに建っていた。


通された応接室は装飾が控えめで、調度の一つひとつが、私の目から見てもいい仕事をしていた。安く見せる気も高く見せる気もない部屋だった。

私は窓辺に立ち、硝子越しに庭を眺めた。芝がよく刈り込まれている。


「お待たせいたしました」


声がして振り返った。

昨夜、廊下の柱の陰にいた長身の影が、そこにいた。

近くで見ると、影でも何でもなく、背の高い、黒髪の、目の色の薄い男だった。瞼の輪郭が、凪いだ湖のようにまっすぐだった。


「アシェンバッハと申します。レーヴェンシュタイン公国大使を拝命しております」

「ケーニッヒスベルク侯爵の妻、エレオノーラと——」


そこまで言いかけて、私は言葉を呑んだ。

私はもうケーニッヒスベルク侯爵の妻ではない。少なくとも、昨夜のあの瞬間から。


「エレオノーラ・ヴェントラントと申し上げた方が、よろしゅうございますね」


私は微笑んで、旧姓を口にした。

微笑みの作り方だけは、十年で随分と上達している。


アシェンバッハ公爵は、私の言い直しを聞いて、ほんのわずかだけ目を伏せた。

怒りでも憐みでもなかった。何かを耐えるような伏せ方だった。



向かい合って腰を下ろしてから、私は単刀直入に切り出した。

回りくどい話は、もうたくさんだった。


「大使閣下。失礼を承知で伺います。なぜ私を」

「貸しを返したかったのです」

「貸し」

「七年前の」


私は首を傾げた。

七年前。私が二十一になった春。確かに若い外国の外交官を含む夜会に出た記憶はある。けれど、貸しを作るような何かを自分がした覚えはない。


「申し訳ございません。私の記憶が追いつかないのですけれど」

「覚えていらっしゃらなくて構いません」

公爵は静かにそう言った。

「覚えているのは、私だけでよろしい」


その言葉の置き方が、十年聞いた夫の言葉とは何かが決定的に違った。

私はその違いを言葉にしようとして、できなかった。



午後の遅い時間、扉が控えめに叩かれた。

入ってきたのは、私の侍女のマルゴだった。


「奥様。屋敷から抜けて参りました」


マルゴは床に頭を下げ、それから、もう一つの報せを口にした。


「奥様。ケーニッヒスベルクの応接間に——本日、お一人もお越しになりませんでした」


私はティーカップを持ち上げかけた手を、空中で止めた。


「お一人も、と申しますのは」

「お招き状を差し上げたお家のうち、どなたも。新しい奥様のお披露目訪問の日でございましたのに」

「……そう」

「家令のオットーさんが申しておりました。先代の奥様が古いご友人にお手紙を書こうとなさったそうですが——名簿を開いてしばらくお動きにならなかったと」


私はティーカップをそっと卓に戻した。


——半分はもう、お亡くなりだから。


口にはしなかった。けれど、頭の中の帳簿が勝手にそのページを開いた。

姑が頼ろうとなさる方々の半分は、この数年のうちに次々に世を去っている。私はそれを把握していたから、毎年、姑の名で弔慰の手紙を代筆してきた。

姑はご自身でその手紙を書いたと信じておられた。


私は窓の外に視線を逃がした。

庭の芝が、午後の光を受けて少し色を変えていた。


可哀想に、と思った。

夫を、ではない。

姑を、でもない。

名簿を開いたまま動けなくなった、その「沈黙の長さ」を想像して。


それはきっと——十年前の私が、嫁いで初めて夫の家の帳簿を開いた朝の沈黙と、よく似ていたのだろう。



夕刻、アシェンバッハ公爵がもう一度、応接間に現れた。

私が大使館に客人として滞在することについて、形式上の取り決めをするためだった。


書類のやり取りは簡潔に済んだ。

最後に、彼は立ち上がりかけて——立ち上がらずに私を見た。


「奥様」

「……はい」

「七年前の貸しを、返したいだけです」

「はい」

「それ以上は、何も求めません」


それだけ言って、彼は今度こそ立ち上がり、扉のほうへ向かった。

扉の前で一度だけ振り返るかと思った。けれど、彼は振り返らなかった。

振り返らないことの方が、何か——優しかった。


私はその背中が消えるまで動けなかった。


代わりに、卓の上の、半分だけ食べた胡桃のシュネッケを見た。

シナモンの香りが、昼よりも強く感じられた。


七年前に、私の何気ない一言を誰かがずっと覚えていたのだとしたら。


——いえ。

そんな、まさか。


私は首を振り、残りのシュネッケをもうひと口だけ口に運んだ。

窓の外で、庭師が薔薇の蔓を結び直しているのが見えた。

彼の手つきは慣れていて丁寧で、見ているだけで、なぜか少しだけ泣きたくなった。

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― 新着の感想 ―
「胡桃のシュネッケ」 すぐに調べて買おうと思ったら、通販では残念ながらなかったです。来週探しに行かないと♪ ラノベ読む目的のひとつなのです。ありがとうございますm(_ _)m
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