第二話 知らない国の馬車
私の朝食の紅茶が、十年で初めて温かかった。
カップを両手で包み、湯気の向こうに見慣れない天井を眺める。
ヴェントラント公爵邸の客間。私が嫁ぐ前に使っていた部屋ではなく、来客用の一室だった。
それが何を意味するのか、私は紅茶を一口含む前に理解した。
実家には、もう私の部屋はない。
当然と言えば当然のことだった。
「お早うございます、エレオノーラ」
兄の声がした。
扉を開ける前にノックを忘れない人だった、昔から。けれど今朝は、そのノックの音がお客様に対するそれだった。
「お兄様」
私は紅茶を置き、立ち上がって礼をした。十年前、嫁ぐ日の朝にも、こうして礼をした気がする。
兄は私の向かいに腰を下ろし、しばらく黙ってからゆっくり口を開いた。
「昨夜のことは聞いた。……父上がご存命であれば、何とおっしゃったろうな」
「父上は何もおっしゃいませんわ。お腹立ちになるか、私を不甲斐ないとお笑いになるか、どちらかでしょう」
「お前は、いつもそうだ」
兄は溜息をつき、それから少し言葉を選ぶ間を置いた。
私はその間の長さで用件を察した。
「お兄様。私を長くお屋敷に置くわけには参りませんわよね」
「……すまない」
それだけ言って、兄は視線を窓のほうへ逃がした。
ヴェントラント家は、王家の傍系だ。離縁同然の妹を屋敷に置けば、社交界の風向きが一夜で変わる。それは頭の中の帳簿を持つ私が、誰よりよく知っている。
「分かっておりますわ。今日中に出て参ります」
「行く当てはあるのか」
「ございません。けれど——」
そう言いかけたところで、扉の外が騒がしくなった。
◇
「お嬢様、お嬢様。表に、見たこともない馬車が」
老いた侍従が息を切らして駆け込んできた。
兄が眉をひそめる。私も眉をひそめた。誰かに迎えを呼んだ覚えはない。
「紋章は」
「それが——どう申し上げればよいのか。レーヴェンシュタイン公国の、大使館の」
私と兄は同時に同じ顔をした、と思う。
レーヴェンシュタイン公国は、わが国と長く冷えた関係にある。その大使館の馬車が王都の貴族邸の前に止まる用件など、本来ならば国家事案だ。
「紹介状は」
「奥様宛のものを、御者がお持ちでございます」
私宛、と聞いて兄が私を見た。
私は心当たりのなさを示すために、ただ首を傾げた。
——いえ。
心当たりがひとつだけあった。
昨夜、廊下の柱の陰に立っていた長身の影。
あの方は確か——アシェンバッハ公爵。
◇
馬車は、装飾を抑えた黒塗りだった。
レーヴェンシュタインの紋章は、扉の内側に控えめに彫り込まれているだけ。
「奥様。お足元、お気をつけて」
御者の言葉も丁寧だった。
私を「奥様」と呼ぶことにためらいがない。
紹介状には整った字で、こうあった。
『——お話したき儀がございます。御身の安全と、御都合を最優先に。お返事は問いません。お乗りいただいたことを、お返事といたします。 アシェンバッハ』
短い。短すぎる。
返事を問わない、という一文に、私は少しだけ警戒を解いた。
返事を強いる男は信用してはいけない。十年で覚えたことの一つだ。
「お兄様」
私は振り返り、玄関の柱の陰に立つ兄に静かに告げた。
「貴方様の家の名はお守りいたしますわ。私は今日、知らない国へ参ります」
兄は何か言おうとして、結局、何も言わなかった。
それでよかった。
言わせない方が兄のためにも私のためにも優しかった。
私は馬車に乗った。
◇
座席には、薄手の毛布が一枚畳んで置かれていた。
その隣に、銀の水差しと、小さな焼き菓子の包み。
包みを解いた瞬間、私は手を止めた。
胡桃のシュネッケ。
シナモンと胡桃を渦巻きに巻き込んだ、レーヴェンシュタインの古い焼き菓子。
私はこれを、生涯で一度だけ口にしたことがある。
七年前の春。外国の客人を招いた小さな夜会の席で。
隣国の老侯爵が「故郷の味だ」と言って、私に勧めてくださった。私は形ばかりに口に運び——けれど思いがけず本当に美味しくて。
「まあ、美味しいこと」
その一言を、私は確かに口にしたはずだ。
誰に向けて言ったわけでもない。隣にいたのが誰だったかも、もう思い出せない。
なのに、なぜ。
馬車の窓の外を、見慣れた王都の通りが流れていく。
私は焼き菓子をひとつだけゆっくり口に運んだ。
シナモンの香りが、七年前とまったく同じだった。
◇
レーヴェンシュタイン公国大使館は、王都の北の外れに静かに建っていた。
通された応接室は装飾が控えめで、調度の一つひとつが、私の目から見てもいい仕事をしていた。安く見せる気も高く見せる気もない部屋だった。
私は窓辺に立ち、硝子越しに庭を眺めた。芝がよく刈り込まれている。
「お待たせいたしました」
声がして振り返った。
昨夜、廊下の柱の陰にいた長身の影が、そこにいた。
近くで見ると、影でも何でもなく、背の高い、黒髪の、目の色の薄い男だった。瞼の輪郭が、凪いだ湖のようにまっすぐだった。
「アシェンバッハと申します。レーヴェンシュタイン公国大使を拝命しております」
「ケーニッヒスベルク侯爵の妻、エレオノーラと——」
そこまで言いかけて、私は言葉を呑んだ。
私はもうケーニッヒスベルク侯爵の妻ではない。少なくとも、昨夜のあの瞬間から。
「エレオノーラ・ヴェントラントと申し上げた方が、よろしゅうございますね」
私は微笑んで、旧姓を口にした。
微笑みの作り方だけは、十年で随分と上達している。
アシェンバッハ公爵は、私の言い直しを聞いて、ほんのわずかだけ目を伏せた。
怒りでも憐みでもなかった。何かを耐えるような伏せ方だった。
◇
向かい合って腰を下ろしてから、私は単刀直入に切り出した。
回りくどい話は、もうたくさんだった。
「大使閣下。失礼を承知で伺います。なぜ私を」
「貸しを返したかったのです」
「貸し」
「七年前の」
私は首を傾げた。
七年前。私が二十一になった春。確かに若い外国の外交官を含む夜会に出た記憶はある。けれど、貸しを作るような何かを自分がした覚えはない。
「申し訳ございません。私の記憶が追いつかないのですけれど」
「覚えていらっしゃらなくて構いません」
公爵は静かにそう言った。
「覚えているのは、私だけでよろしい」
その言葉の置き方が、十年聞いた夫の言葉とは何かが決定的に違った。
私はその違いを言葉にしようとして、できなかった。
◇
午後の遅い時間、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、私の侍女のマルゴだった。
「奥様。屋敷から抜けて参りました」
マルゴは床に頭を下げ、それから、もう一つの報せを口にした。
「奥様。ケーニッヒスベルクの応接間に——本日、お一人もお越しになりませんでした」
私はティーカップを持ち上げかけた手を、空中で止めた。
「お一人も、と申しますのは」
「お招き状を差し上げたお家のうち、どなたも。新しい奥様のお披露目訪問の日でございましたのに」
「……そう」
「家令のオットーさんが申しておりました。先代の奥様が古いご友人にお手紙を書こうとなさったそうですが——名簿を開いてしばらくお動きにならなかったと」
私はティーカップをそっと卓に戻した。
——半分はもう、お亡くなりだから。
口にはしなかった。けれど、頭の中の帳簿が勝手にそのページを開いた。
姑が頼ろうとなさる方々の半分は、この数年のうちに次々に世を去っている。私はそれを把握していたから、毎年、姑の名で弔慰の手紙を代筆してきた。
姑はご自身でその手紙を書いたと信じておられた。
私は窓の外に視線を逃がした。
庭の芝が、午後の光を受けて少し色を変えていた。
可哀想に、と思った。
夫を、ではない。
姑を、でもない。
名簿を開いたまま動けなくなった、その「沈黙の長さ」を想像して。
それはきっと——十年前の私が、嫁いで初めて夫の家の帳簿を開いた朝の沈黙と、よく似ていたのだろう。
◇
夕刻、アシェンバッハ公爵がもう一度、応接間に現れた。
私が大使館に客人として滞在することについて、形式上の取り決めをするためだった。
書類のやり取りは簡潔に済んだ。
最後に、彼は立ち上がりかけて——立ち上がらずに私を見た。
「奥様」
「……はい」
「七年前の貸しを、返したいだけです」
「はい」
「それ以上は、何も求めません」
それだけ言って、彼は今度こそ立ち上がり、扉のほうへ向かった。
扉の前で一度だけ振り返るかと思った。けれど、彼は振り返らなかった。
振り返らないことの方が、何か——優しかった。
私はその背中が消えるまで動けなかった。
代わりに、卓の上の、半分だけ食べた胡桃のシュネッケを見た。
シナモンの香りが、昼よりも強く感じられた。
七年前に、私の何気ない一言を誰かがずっと覚えていたのだとしたら。
——いえ。
そんな、まさか。
私は首を振り、残りのシュネッケをもうひと口だけ口に運んだ。
窓の外で、庭師が薔薇の蔓を結び直しているのが見えた。
彼の手つきは慣れていて丁寧で、見ているだけで、なぜか少しだけ泣きたくなった。




