第39話「届いていた」
朝の石畳は、少しだけ乾いていた。
夜の湿り気がまだ奥に残っていて、人が歩くたび、薄い音が俺の下を通っていく。
ネアは俺をいつもの石台に置いた。
布越しではない地面の近さが戻ってくると、廃都の朝はやけに正直になる。
タロが木箱を二つ抱えてきた。
ひとつは軽そうで、もうひとつは軽そうに見せかけて、置いた時の響きが重かった。
「よいしょっと。これ、こっちでいい?」
「……うん」
ネアは短く返して、箱の角を手で押した。
リコはその横で、縄を持ってぐるぐる回っている。
縄は荷を縛るためのものだ。
少なくとも、さっきまではそうだった。
今はリコのしっぽみたいになっている。
本人にしっぽはないが、勢いだけなら十分あった。
「リコ、転ぶぞ」
「ころばない!」
そう言った足が、石畳の継ぎ目に軽く引っかかった。
転びはしなかった。両手を広げて、鳥でもないのに羽ばたきだけした。
タロが笑って、ネアが縄の端を拾った。
その手つきに、昨日より少しだけ力が戻っている。
少しだけ、というところが大事だ。
一気に元気になると、人はだいたい無茶をする。
俺は石なので、無茶をする足がない。そこだけはかなり優秀だった。
今日は、試す日だった。
ネアだけではない。
タロだけでもない。
リコだけでもない。
三人に、同時に。
そう決めたのは俺だが、決めたところで石は動けない。
できることは、奥にあるものを少しだけ押すことだった。
地面の下を流れるものに触れる。
それは水ではない。風でもない。
名前をつけると急に偉そうになるので、俺はまだ、あまり名前で呼びたくない。
ただ、ある。
廃都の石の隙間に、井戸の底に、割れた壁の奥に。
ネアの足の下にも、タロが箱を置く場所にも、リコが踏み外しかけた継ぎ目にも。
そこへ、薄く手を伸ばすようにした。
手はない。
ないが、たぶんこういう時の人間は手と言う。
ネア。
タロ。
リコ。
名前を呼ぶのではなく、足元の震えをひとつずつ拾う。
ネアは軽い。音が少ない。
タロは大きい。迷いなく置いて、迷いなく持ち上げる。
リコは読みにくい。
走る、止まる、跳ねる、また走る。
石にとって一番困る種類の生き物だった。
「リコ、待って」
「やだ!」
ネアの声が低く追いかけて、リコの足音がそれを軽くかわした。
かわすな。加護をかける側の気持ちにもなってほしい。
俺は三つの震えを、ひとつずつではなく、同じ輪の中に置いた。
輪。
それもまた、人間の言葉だ。
実際には丸くもないし、見えてもいない。
けれど、ばらばらのものを同じところへ入れる感覚はあった。
ネアの静かな足。
タロの荷の重み。
リコの小さすぎる跳ね。
それぞれ違う。
違うまま、同じ薄さで包む。
強くすると、たぶんよくない。
俺の力は、押せば押すほどいいものではない。
石が本気で押したら、だいたい何かが欠ける。
だから、ほんの少し。
足の裏に入る程度。
肩の重さを忘れる程度。
走っても息が乱れにくい程度。
俺はそれを、三つに分けないようにした。
分けると、きっと漏れる。
ひとつにまとめると、今度は誰かに寄りすぎる。
石のくせに、ずいぶん細かいことをしている。
前世でこんな調整力があれば、会議の席順くらいはもう少し上手くいったかもしれない。
どうでもいいことが浮かんだ瞬間、流れが少し乱れた。
おっと。
石におっとも何もないが、今のはおっとだった。
タロの足元がふっと軽くなる。
ネアの指が、箱の角を押したまま止まる。
リコの走る幅が一歩分だけ伸びる。
そこまでは分かった。
次に、別のものが触れた。
三つの外側。
輪の端でも、漏れでもない。
もっと遠い、けれど同じ石畳の上にある気配だった。
届いた。
言葉にすると、それしかなかった。
狙ったわけではない。
呼んだわけでもない。
でも、何かが返ってきた。
市場の端で、桶の金具が鳴った。
水ではない。金具だ。
その音の近くで、誰かが立ち止まった。
「あれ」
フリンの声だった。
俺は力を止めかけて、止めなかった。
止めたら全部ほどけそうだった。
ネアが箱から手を離す。
タロが肩を回す。
リコは、なぜか同じ場所を三周した。
「なんか、体軽いな」
タロが首を傾けた。
荷物を持つ手はそのままで、言い方だけが少し不思議そうだった。
「昨日の豆、効いたかな」
豆の評価が高い。
それでいい。
ネアは自分の手を見た。
見ただけで、何も言わなかった。
その沈黙が、いつもより少し短い。
リコは走った。
市場の端から井戸の方へ、井戸の方からまた箱のところへ。
縄を持ったままなので、縄が仕事を忘れている。
「はやい!」
「速いのはいいけど、戻ってきすぎだぞ」
タロが笑って止めようとしたが、リコは止まる気配だけ見せて止まらない。
人間の子どもは、気配と本体がよく別行動をする。
ネアが縄を踏んだ。
リコが振り返る。
「あ」
「……結ぶ」
ネアはその一言で、遊びから作業へ戻した。
すごい。俺が同じことを念じても、たぶん縄には届かない。
フリンの足音が近づいてきた。
急いではいない。
ただ、いつもより少し歩幅が広い。
桶の水が揺れているのか、金具が小さく何度も鳴った。
「体がすごく軽い。今日だけ若返ったみたい」
淡々としていた。
大発見でも、奇跡でもない。
台所で塩の場所が変わっていた、くらいの声だった。
その温度で言われると、逆にこちらが困る。
タロが振り向いた。
「フリンさんも?」
「も?」
フリンはそこで、タロの肩と、走りすぎたリコと、何も言わないネアを順に確かめた。
確かめた、気がした。
俺は目で見ていない。
けれど視線が動く時、人の足は少し黙る。
「変な日ね」
フリンはそう言って、桶を置いた。
石畳に重みが落ちる。
それから、こちらへ足先が向いた。
ほんの少しだけ。
「変な石ね、あんた」
その声は軽かった。
褒めていない。
責めてもいない。
ただ、そこにあるものを、そこにあるまま拾ったような声だった。
俺は返事をしなかった。
念話で何か言えば、たぶん台無しになる。
ネアが俺を見た。
何も言わない。
タロは首をかしげたまま、もう一度荷物を持ち上げた。
「やっぱ軽いな。これ、今日中に棚まで運べるかも」
「無理しない」
「分かってるって」
分かっている人間の返事ほど、石には信用しにくい。
とはいえ、足音は浮きすぎていない。
リコは棚という言葉を聞いて、また走り出した。
棚は逃げない。
リコはたぶん、それを確認しに行った。
フリンが桶の取っ手を握り直す。
動きはいつも通りで、声だけが少しだけ柔らかかった。
「まあ、軽いなら働けるわね」
「休む発想は?」
タロの問いに、フリンは答えなかった。
答えないまま、桶を持ち上げた。
その沈黙にも体力がある。
俺の中で、さっきの輪はもうほどけていた。
ネアの足、タロの肩、リコの走る音。
どれも普段の重さへ少しずつ戻っていく。
フリンの足音も、遠くなった。
ただ、遠くなる前に一度だけ、石畳が小さく返した。
俺の方へではない。
廃都の奥へでもない。
さっき触れた、その外側から。
(届いていた)
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——石より




