第38話「グラン爺の家」
笑い声の次の日も、その次の日も、市場は市場だった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地面の音を聞いていた。
籠を置く音。皿を洗う水の音。タロが遠くで何かを言い返されている声。廃都の朝は、だいたいその辺りで出来ている。
今日は、ネアの足音だけが少し違った。
市場へまっすぐ行かない。ヴェラの店の前も通らない。神殿跡の石段へ向かう道を、ゆっくり上っていた。
(仕事じゃないな)
念話には出さなかった。
ネアの指が、ポケットの上に乗っていた。握るでも撫でるでもなく、ただ、そこにある。あの笑い声のあとから、ときどきそういう置き方をする。
聞けばいいのかもしれない。
聞かなかった。
坂の上は、人の足音が少ない。かわりに古い石の奥がよく響く。市場の地面は踏まれて軽いが、こっちは深いところに硬さが残っていた。昔から動いていない石の重さだった。
ネアは神殿跡の石段を上りきらず、途中で横にそれた。
5歩ほど進んで、止まる。
木の扉があった。地面に伝わる重さで分かった。古くて厚い。よく乾いているのに、蝶番のあたりだけ少し湿っている。
ネアが手を上げた。
扉を叩く音が3回。
◆
中から杖の音がした。
こつ。
間を空けて、また、こつ。
急いでいない。けれど迷ってもいない足音だった。
扉が開く前に、古い紙のにおいみたいなものが地面を通ってきた。においは分からないはずなのに、紙が乾いて擦れる重さで、そう思った。
「来たか」
グラン爺の声だった。
「……うん」
「入りなさい」
ネアは短く頷いたらしかった。足音が家の中へ入る。扉の下の段差を越えた瞬間、地面の質が変わった。
市場でも、ヴェラの店でも、フリンの家でもない。
ここは、物が多い。
多いのに、散らかっている感じではなかった。重さの置き方に、妙な規則がある。右の壁には紙。左の壁には石。奥の方には木箱。真ん中の机だけが、少し空いている。
たぶん、グラン爺には全部の場所が分かっている。
俺には分からない。分からないまま、部屋の底だけが重かった。
◆
壁ぎわに本が積まれていた。山が1つではない。低い山、高い山、斜めに寄りかかった山。革の硬さも、布の柔らかさも混じっている。
床には細い木箱がいくつか置かれていた。中身は軽くない。石だと思う。小さいものが、仕切りの中で動かないように詰められていた。
部屋の真ん中には机があった。
机の上に、大きな紙が広げられている。端を押さえるように、石の欠片が4つ置かれていた。欠片の重さは全部違う。乾いたもの。水を吸った跡があるもの。表面だけ妙に滑らかなもの。
地図、だろうか。
俺には見えない。
ただ、紙の端を押さえるためだけに置かれた石ではなかった。グラン爺の指が、その欠片の1つを避けて机を叩いたからだ。
「そこへ」
ネアが床に座った。ポケットの中の俺の位置が少し下がる。床の石に近づいた分、部屋の重さが濃くなった。
ネアは何も言わない。
グラン爺も、すぐには話さなかった。
杖が机の横に立てかけられる。木の脚が小さく軋む。紙の端が指で直される。
その間、ネアの手はポケットの上から離れなかった。
グラン爺の指が、机の上を2回、軽く叩いた。
話し始める合図ではなかった。何かを数えているようでもなかった。ただ、置く言葉を選ぶ前に、指だけが先に動いた。
ネアの膝の重さは動かない。
俺は、地面に近くなった分だけ、この家が古い石の上に建っているのを感じていた。床板ではなく、下に敷かれた石が太い。市場の石畳よりも硬く、神殿跡の石段よりも乾いている。
家、というより、何かを隠しておく箱みたいだった。
◆
「廃都の昔の話をしてやろう」
グラン爺の声は低かった。
「一度目だ」
ネアの指が止まった。
一度目。
その言い方だけで、二度目があるのが分かる。何度目まであるのかは、分からない。
「ここはな。昔、イシュラと呼ばれておった」
イシュラ。
俺は、その音をポケットの中で転がした。
念話には出さない。
「都だった。このあたりで、いちばん大きい都だ。市場も、今よりずっと広かった。人も多かった」
グラン爺の指が机の紙を叩いた。
とん、と乾いた音がする。
「この道が、今の市場へ続く道だ」
ネアは返事をしなかった。
たぶん見ている。地図を。俺には分からない線を。
「廃都と呼ばれる前は、廃れてなどおらんかった」
グラン爺はそこまで言って、少し黙った。
ネアも聞かなかった。
どうして廃れたのか。
聞ける場所だった。たぶん、俺が念話で聞けば、ネアはそのまま声にしてくれる。グラン爺も、答えるかもしれない。
でも、聞かなかった。
聞いたら、この部屋の重さが全部こちらへ倒れてくる気がした。
ネアも同じだったのかは分からない。
ただ、ポケットの上の指は動かなかった。いつものネアなら、興味のない話は少しだけ足先が外へ向く。今日は、それがない。
外へ向かない。
かといって、前にも出ない。
聞かないまま、そこにいた。
◆
「神殿跡の石柱を覚えておるか」
「……うん」
「あれに刻まれている文字は、古代語だ」
ネアの手が、ポケットの上で少しだけ動いた。握りかけて、やめた。
「今の文字ではない。今の者が読めるものでもない」
グラン爺の椅子が小さく鳴った。
「わしも若い頃、少しだけ読もうとした」
少しだけ。
その言い方に、嘘はなかったと思う。ただ、全部でもない。地図の上に置かれた石の欠片が、1つだけ持ち上げられた。机の重さがそのぶん軽くなる。
すぐに戻された。
「古い言葉は、石に残る」
グラン爺はそれ以上を言わなかった。
石に残る。
その言葉だけ、やけに近く聞こえた。
俺は石だ。たぶん、誰かがそう言えば、それだけの話になる。でも今は、そういう軽さではなかった。
古い言葉が石に残るなら。
俺には、何が残っているのか。
考えかけて、やめた。
今ここで考えることではない気がした。
部屋の隅で、紙の山がかすかに崩れた。ほんの少しだけ。ネアの足がそちらへ向きかける。
「よい」
グラン爺が短く止めた。
ネアの足が戻る。
紙の山は、そのままだった。
◆
「今日は、ここまでにしよう」
急に言われた。
ネアは少しだけ動きを止めた。それから頷く。
「……うん」
「また来なさい」
「うん」
短い会話だった。渡された本もない。地図を写すこともない。石の欠片を見せられただけで、触りもしなかった。
何ももらっていない。
けれど、ネアが立ち上がる時、ポケットの上の指が一度だけ強くなった。
俺は、その強さを覚えた。
グラン爺は椅子から立たなかった。杖も取らない。机の向こうに座ったまま、ネアが扉へ向かう音を聞いていた。
ネアが扉に手をかける。
古い木が、低く鳴った。
◆
「そろそろ話していい頃かな」
背中の方から、声が落ちた。
ネアに向けた声ではなかった。机の上の地図か、石の欠片か、もっと下の何かに向けた声だった。
ネアの足が止まる。
「……まだ少し早いか」
グラン爺は、それきり黙った。
ネアは振り向かなかった。
俺も何も言わなかった。
扉が開く。外の空気が入る。坂の地面の硬さが、また近くなる。
ネアは外へ出た。
◆
帰り道、神殿跡の石柱の横を通った。
ネアは足を止めなかった。ただ、速度が少し落ちる。
石柱の表面には細い溝があった。前から知っていた溝だ。今までは、ただの傷だと思っていた。地面越しに触れると、深いところだけ冷たい。
(古代語)
思っただけで、言わない。
読めない。
見えないからではない。見えても、たぶん読めない。グラン爺が若い頃に少しだけ読もうとしたものを、ポケットの中の石がいきなり読めるわけがない。
それでいい。
今日は、読めないことを知っただけで十分だった。
ネアの指がポケットの上を撫でた。さっきより軽い。確かめるような動きではなく、そこにいるかを触るだけの動きだった。
市場の音が下から上がってくる。
タロの声も混じっていた。何かを落としたらしい。誰かに怒られている。
いつもの廃都だった。
その足元に、イシュラという名前が沈んでいる。
俺は、それを言葉にはしなかった。
◆
市場に戻ると、タロが走ってきた。
「ネア! どこ行ってたんだよ」
「……坂」
「坂?」
「うん」
ネアはそれ以上言わなかった。
タロはしばらく待った。待って、待ちきれずに別の話を始めた。今日の屋台で何が倒れたとか、誰がそれを直したとか、だいたい自分が関係している話だった。
ネアは、ときどき「うん」とだけ返した。
俺も何も言わなかった。
古い本も、地図も、石の欠片も、ポケットの中には入っていない。
それでも坂の上の扉の重さだけが、まだ指先の近くにあった。
◆
(扉の向こうだけ、まだ重いらしかった)
*【第38話 了】*
グラン爺の家。
「廃都の昔の話をしてやろう。一度目だ」
——一度目。
俺は、何ももらっていない。
でも、扉は重かった。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「届いていた」もよろしく。
届くものと、まだ届かないものがある。
——石より




