第37話「ネアが笑う」
翌日。市場が、ふだんに戻り始めていた。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
屋台の枠が、まだ、半分ほど残っていた。残りは、片付けの最中だった。木を担ぐ音、縄を解く音、地面に置く音。昨日とは、逆向きの動きだった。担ぐ重さと、置く重さが、同じ場所で、繰り返されていた。同じ住民の足音が、何度か、屋台と店の間を往復していた。
市場の住民の声は、ふだんに戻っていた。籠を運ぶ音、皿を片付ける音、誰かの咳。日常の音だった。昨日の、ふだん聞かない声は、もう、地脈には、混じっていなかった。隣の路地の家の人も、市場の角の奥の家の人も、自分の家に、戻ったらしかった。
タロの祈りの声が、市場の角から、戻ってきた。
「石様! 今日もよろしく頼む!」
腹から出る声だった。元気な声だった。昨日のタロは、屋台の枠を担ぐ側だった。今日のタロは、また、子どもに戻っていた。
(そう簡単に、戻るのか)
俺は、ポケットの中で、それだけ思った。念話には、出さなかった。
ネアが、足を止めた。少しだけ。それから、また歩き出した。歩幅は、いつもどおりだった。
でも、地脈の振動で、ネアの呼吸がふだんより、ほんの少しだけ深かった。昨日の夜の余韻が、まだ、残っているらしかった。指がポケットの上を、軽く、撫でた。昨日の夜と、同じ撫で方だった。それから、止めた。
◆
ヴェラの店の方角は、ふだんに戻っていた。窯の火の音、籠を運ぶ音、子どもの声。甘い空気の質感は、もう、地脈には、乗っていなかった。
ネアが、ヴェラの店の前を、通り過ぎようとした。
ヴェラの足音が、ネアを呼び止めた。窯の前を、離れて、ネアの方に来た気配があった。
「あんた」
「うん」
「昨日、どうだった」
「……」
ネアが、しばらく答えなかった。地脈の振動で、ネアの指が、ポケットの上をまた軽く撫でた。それから止めた。
「……うん」
短く、それだけ言った。
ヴェラが、それで、頷いた気配があった。何も、聞き返さなかった。粉のついた手で、エプロンを軽く払った。粉が、薄く落ちた。それで、戻りかけた。それから、もう一度、止まった。
「明日も、来な」
短く、それだけ付け足した。
「うん」
ネアが、また、頷いた。それから、歩き出した。地脈の振動で、ヴェラの足音は、しばらく、その場から動かなかった。
◆
昼。市場の角で、住民が、屋台の片付けをしていた。
タロの足音が、その方角に、混じっていた。今度は、子どもの足音だった。指揮する側ではなかった。手伝う側だった。誰かに何かを言われて、何かを運んで、また戻ってきていた。
地脈の振動で、タロの足音は、何度か、軽く、跳ねていた。屋台の片付けが、楽しいらしかった。昨日の指揮の重さが、もう、消えていた。
ネアが、その方角の、少し手前で、足を止めた。
タロの足音が、こちらに気づいた。走ってきた。
「ネア!」
「うん」
「これ、見ろ」
タロが、ネアの方に、何かを差し出したらしかった。地脈の振動で、それが、伝わった。木で出来た、軽い何かだった。
「お面、もらった!」
「……」
ネアが、しばらく、黙った。それから、短く、頷いた。
タロが、それを、自分の頭に、被ったらしかった。地脈の振動で、タロの頭の重さが、ほんの少しだけ、変わった。木で出来たものの重さが、上に乗っていた。
タロの足音が、ネアの周りで、少し、動いた。お面を被ったまま、何か、手で、形を作っていた気配があった。両手を、広げたり、また、曲げたりしていた。何かの真似をしているらしかった。何の真似かは、地脈の振動だけでは、分からなかった。
◆
タロが、何か言いかけた。それから、急に、足音が、揺れた。
お面を被ったまま、振り向こうとしたらしかった。視界が、半分、隠れていたらしい。タロの足音が、不規則になった。後ろに、少し引いた。それから、横に、傾いた。何かに、ぶつかったらしかった。屋台の枠の、残っている1本だった。
地脈の振動で、それが揺れた。タロの足音と、屋台の枠の重さが、一緒に地面に落ちた。
大きい音だった。
タロは、そのまま、しばらく起き上がらなかった。お面が、頭から、少しだけ、ずれていたらしかった。
「……」
タロが、声を、出さなかった。
市場の住民の足音が、いくつか、止まった。
◆
その時だった。
地脈の振動で、ネアの呼吸が、一瞬、止まった。それから、急に、不規則になった。短く、何度か、刻まれた。胸の中で、空気が、揺れていた。揺れが、ふだんの呼吸とは、まったく違った。
ネアの口から、声が、出た。
地脈の振動で、それが、分かった。
半年、ずっと、ネアのポケットにいた俺の、聞いたことのない音だった。
短い音だった。何度か、続いた。それから、また続いた。途切れて、また始まった。胸の中の揺れと、ずれていなかった。
市場の住民の足音が、止まったままだった。動かなかった。誰の呼吸も、ふだんと違っていた。皆、その音を、聞いていた。
タロの足音は、まだ地面にあった。立ち上がらなかった。お面を被ったまま、タロの頭が、ネアの方を向いたのが、地脈の振動で分かった。
ネアの声は、続いた。
◆
しばらくして、ネアの呼吸の不規則が、止まった。短く、息を、吸った。それから、ふだんのリズムに、戻った。整える動きだった。
声は、もう、出さなかった。
地脈の振動で、ネアの指が、口の前に、上がった気配があった。ふだんは、しない動きだった。それから、また、下がった。何かを、隠す動きだったのかもしれなかった。
ネアの足音が、また、ゆっくり、動いた。タロの方に、少し近づいた。それから、立ち止まった。
タロが、地面から、ようやく、起き上がった気配があった。お面を、被り直した。地脈の振動で、それが分かった。
タロが、しばらく、何も言わなかった。屋台の枠を、地面から、少しずつ、起こしていた。重い物を持ち上げる音と、軽い砂を払う音が、混じった。
それから、低い声で、ぽつりと、
「……笑った」
短く、それだけ言った。
声に、嬉しさは、混じっていなかった。でも、タロの足音が、その後、しばらく、軽くなった。立ち上がる動きが、ふだんより、少しだけ、跳ねていた。
ネアは、何も、言わなかった。
市場の住民の足音が、また、ふだんに戻った。籠を運ぶ音が、戻った。皿を片付ける音が、戻った。誰も、ネアの方は、見なかった。聞き返さなかった。何かを、聞かなかったことに、しているらしかった。それが、廃都の住民のやり方だった。優しさとは、少し違う、何かだった。
◆
夕方。
ネアが、いつもの仕事を、いつもどおりにこなしていた。指の動きも、足音も、呼吸も、ふだんと同じだった。布を畳んで、台に積んで、また畳んだ。動きの速さも、ふだんどおりだった。
でも、地脈の振動で、ネアの口の端が、ふだんと少しだけ違っていた気がした。俺の、推測だった。確かめる方法は、なかった。
念話を、送らなかった。
送ったら、たぶん、無口モードがもう一段、深くなる気がした。今日のネアは、それを、自分の中で、整理する時間がいるらしかった。
帰り道、ネアの足音は、ふだんよりも、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。タロの家の方角は、通らなかった。今日は、市場の角を、まっすぐ、家の方に、抜けた。
ネアの指が、ポケットの上を、もう一度、撫でた。今日、何度目かは、分からなかった。ふだんは、しない数だった。撫でて、止めた。それから、また撫でた。同じ動きの繰り返しだった。
◆
(聞いたことのない音だった)
ネアが、笑った。
——たぶん。
俺は、ポケットの中で、聞いていた。
半年、ずっと、ネアのポケットにいたのに。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
タロが、また、転ぶかもしれない。
——石より




