第36話「祭り」
祭りの日の朝は、戸を開ける音から始まった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は街の足音を聞いていた。
市場の方角で、木箱がいつもより早く動いている。売り物を並べる音ではない。古い板を立て、棒を渡し、縄で締める音だった。
屋台、というやつらしい。
前世でも祭りは見たことがある。会社帰りに駅前の通りが塞がれて、焼きそばの匂いだけが勝っていた記憶がある。
今の俺には匂いはよく分からない。
その代わり、板が地面に立つ重さと、人がそこへ集まっていく向きが分かった。
『ネア、今日は人が多いな』
「祭り」
『知ってる顔ばっかりか?』
「たぶん」
たぶん、で済ませる人数ではなかった。
市場の奥。井戸のそば。神殿跡へ続く石段の下。普段は家の中に沈んでいる重さまで、今日は外へ出ている。
誰かが木を抱えて歩き、別の誰かが受け取る。子どもがそこをくぐろうとして、ヴェラに短く叱られる。
「下、通るんじゃないよ」
「通ってない!」
声はリコだった。
通ったやつの声だった。
◆
「お面! お面あった!」
リコの足音が、ネアの前を横切った。
軽い。止まらない。屋台の間を抜け、誰かの足にぶつかりかけ、また戻ってくる。頭の上で何かを振っているらしく、薄い板が空気を切る音がした。
「ネア、見る?」
「見えない」
「あ、そっか」
リコは少し黙った。
それから、ポケットの前でしゃがんだ。
「石、見える?」
『俺に聞くな』
ネアが伝えた。
「見えないって」
「石なのに?」
(石だからだよ)
リコは納得したのかしていないのか、また走っていった。
すぐ近くで、タロの声が飛ぶ。
「リコ! そこ走んな! 灯り倒す!」
「倒さない!」
「去年倒しただろ!」
「倒してない!」
去年の真相は知らない。
ただ、タロの足音は忙しかった。木箱を運ぶ時は重く、子どもを追う時は速い。誰かに呼ばれると止まり、別の誰かに指示を出す。
「おい、そっちじゃねえ。こっち先」
指示、というほど格好よくはない。
でも、みんなが聞いていた。
◆
昼近くになると、祭りの形が地面から浮かんできた。
市場の端に屋台が並ぶ。板の足が石畳を押し、細い支柱が風でわずかに鳴る。古い灯りの器が、店先に置かれていく。
その器の数が多かった。
ただの市場の祭りにしては、多い。
ヴェラが屋台の布を結びながら言った。
「昔は、もっと大きかったらしいよ」
「何が」
ネアが聞いた。
「この祭りさ」
ヴェラの手が布を引いた。古い布が伸び、縫い直した端が小さく鳴る。
「廃都がまだ廃都じゃなかった頃から、やってたんだと」
「なんの祭り」
「さあね」
さあね、で終わった。
誰も続きを足さなかった。
近くにいた老人が、器を置きながら笑った。
「昔からだ」
説明はそれだけだった。
昔から。
誰が始めたのかも、何を祝うのかも、もう残っていない。ただ、器だけが残って、火だけが入る。
廃都。
そう呼ばれる前から。
ネアの足元で、石畳の継ぎ目が少しだけ違っていた。
市場の真ん中から、井戸の方へ向かって、細い線みたいに古い石が並んでいる。今の道とは角度が合っていない。誰もそこを道として使っていないのに、祭りの器だけは、その線に沿って置かれていた。
『ネア、その器の並べ方、決まってるのか』
「知らない」
「ああ、それな」
老人の声が近くで笑った。
「昔から、そこに置くんだ」
『理由は?』
ネアは伝えなかった。
聞かなくても、答えは同じだと思ったのかもしれない。
老人は、器を置いて、腰を叩いた。
「ほら、次」
理由のない手順だけが、次の手に渡っていく。
◆
ネアは屋台の手伝いをした。
手伝い、と言っても、本人は何も言わない。落ちそうな布を押さえ、緩い結び目を直し、邪魔な木片を端へ寄せる。
タロが大きな声を出す。
「ネア、それ終わったらこっち!」
「今やってる」
「早く」
「うるさい」
「うるさいって言うな」
「うるさい」
タロが黙った。
周りで誰かが笑った。
ネアは笑わない。けれど、ほどいた縄を投げずに、きちんと丸めて置いた。次に使う人が手に取りやすい向きだった。
『祭り、嫌いじゃないんだな』
「別に」
『別に、の手つきじゃない』
ポケットの上から指が押された。
痛くはない。
石なので。
でも、抗議ではあった。
タロの弟妹も、屋台の下で働いていた。
働いていた、というより、木切れを持って右へ左へ走っているだけだった。けれど本人たちは真剣らしい。小さい足音が2つ、同じ場所で何度も止まっては、また動く。
「兄ちゃん、これどこ」
「そっち! いや、違う、こっち!」
「どっち」
「今決めてる!」
決めてから言え。
俺は念話に出しかけて、やめた。
タロが鼻を鳴らす。照れた時の音に似ていた。
「お前ら、落とすなよ。祭りのやつだからな」
「わかってる」
小さい声が重なった。
昨日、戸の内側からパンを取った子どもたちの声だった。
今日は外にいる。
それだけで、屋台の板が少し違う重さを持った。
◆
夕方、食べ物の屋台が動き始めた。
油の弾ける音。木皿が重なる音。焼いた何かを渡す声。俺には味も形も分からないが、ネアが足を止めたので、そこに食べ物があることだけは分かった。
「あの子にもやんな」
知らない男の声がした。
「……お金」
「今日はいい」
「でも」
「祭りだからな」
便利な言葉だった。
ネアは少し黙ってから、受け取った。
手のひらに乗ったものは軽くて温かい。紙ではなく、薄い葉で包まれているらしい。ネアがそれを口へ運ぶ。
噛む音がした。
それだけで、いつもの食事と違った。
急いで飲み込まない。次をすぐに隠さない。半分を明日に回す動きでもない。
もう1口。
それから、もう1口。
『うまいか』
「……ん」
短い。
ただ、その「ん」は、返事としては長かった。
タロが近づいてきた。
「うまいだろ」
「ん」
「俺が運んだ」
「作ってない」
「運んだのも大事だろ」
「そう」
タロの足音が、変なところで跳ねた。
褒められたつもりらしい。
ネアは、最後の欠片を口に入れる前に止まった。
ほんの小さい欠片だった。明日に残すには小さすぎる。誰かに渡すにも、たぶん足りない。
それでもネアは、屋台の奥を見ているらしかった。
リコの足音が戻ってくる。お面を揺らしながら、息だけで笑っている。タロの弟妹がそれを追いかける。
ネアは欠片を口に入れた。
それから、空いた手でポケットの上を押した。
『俺にも食わせろって?』
「違う」
『石に食わせる祭り、だいぶ怖いぞ』
「うるさい」
でも、指は離れなかった。
少しだけ、温かかった。
◆
灯りが入る前、ダンが市場の北側を歩いた。
煙管の金具が、腰のあたりで小さく鳴る。歩き方は祭りの人のものではなかった。木箱の端を直し、屋台の足を見て、北の路地で1度止まる。
昨日の「妙だったな」が、そこに残っていた。
俺は、その方角を聞いた。
北は静かだった。
静かすぎる、と言えるほどではない。祭りの音が大きいだけかもしれない。届かない場所で誰かが歩いていても、俺には分からない。
『ネア』
「ん」
『北、少し薄い』
ネアの指が止まった。
けれど、歩き出さなかった。
「今?」
『今すぐ何か、じゃない』
「じゃあ、あと」
それで終わった。
ネアは屋台へ戻った。タロが呼んでいた。リコが灯りを触ろうとしていた。
俺も、それ以上は言わなかった。
使えるからといって、祭りの真ん中に警鐘を置く必要はない。
ネアも、俺を地面に置かなかった。
置けば、もう少し広く聞ける。北の薄さが、ただの空白なのか、何かの重さなのか、少しは分かるかもしれない。
けれど、ネアはポケットの上に手を置いたまま、灯りの器を受け取った。
小さい火を、両手で運ぶ。
急がない。
揺らさない。
火の皿を石畳の線の上に置く時だけ、指先がほんの少し慎重になった。
北を見るより先に、そこだった。
◆
夜。
灯りが入った。
火の熱は、地面にも届く。小さな器が石畳の上に並び、そこから薄い揺れが広がっていく。市場だけではない。井戸の横。神殿跡の階段。ヴェラの店先。ダンの家へ続く曲がり角。
廃都のあちこちに、火の重さが置かれていた。
人の足音が、その間を通る。
子どもが走る。
大人が叱る。
誰かが笑う。
タロがまた何かを落とし、リコが自分ではないと言い張る。
ネアは石段に座った。ポケットの中の俺の位置が、少し安定する。膝の上。たぶん、灯りがよく見える場所。
俺には見えない。
でも、街が分かった。
昔から残った器。名前の消えた祭り。理由を知らないまま火を入れる人たち。盗賊団の後でも、布を出し、屋台を立て、子どもを叱る声。
全部が、地面の下で繋がっている。
(これが——ここの力だ)
念話には出さなかった。
言えば、たぶん軽くなる。
◆
ネアは長い間、黙っていた。
食べ終わった葉包みを、きれいに畳んでいる。捨てずに持って帰るつもりらしい。ポケットの上に置かれた指は、動かない。
風が吹いた。
火が揺れた。
市場の声が、そのたびに少し遠くなり、また戻ってくる。
ネアが、小さく息を吸った。
「……きれいだね、イシル」
声は、灯りより小さかった。
俺は返事をしなかった。
ネアの指がポケットの上をなぞる。1度だけではない。確かめるみたいに、ゆっくり。
北の方角は、まだ薄かった。
でも、ネアは灯りを見ていた。
◆
(返事を、しなかった)
*【第36話 了】*
祭り、らしい。
「……きれいだね、イシル」
——理由のない火。
俺は、見えていない。
でも、たぶん少し近かった。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「ネアが笑う」もよろしく。
タロがまた何かやるらしい。
——石より




