第35話「後日談」
朝の市場は、少しだけ遅れて始まった。
◆
いつもなら、夜明けのすぐあとに木箱が鳴る。
今日は、その音がなかなか来なかった。代わりに、戸を開ける音が、あちこちで短く止まっていた。開けて、外を確かめて、また中へ声をかける。そんな動きが、地面から薄く伝わってくる。
ネアのポケットの中で、俺はその振動を聞いていた。
盗賊団が来た日の硬さは、もうなかった。けれど、何もなかった日の市場でもなかった。足音の間に、昨日より少し長い空白がある。誰かが笑うまでに、少しだけ時間がかかる。
(——そりゃそうだ)
ヴェラの店の戸が開いた。粉を払う音。窯の奥で薪が鳴る音。そこに、タロの声が割り込んだ。
「石様! 朝だぞ!」
でかい。
昨日、あれだけ低い声を出していた同じやつとは思えない。
ネアが足を止めた。
「……うるさい」
「聞こえてんじゃねえか」
「聞こえる」
タロの足音が、少しだけ跳ねた。安心した時の足音、というものがあるなら、たぶんそれだった。
『朝から元気だな』
ネアは、そのまま伝えなかった。
代わりに、ポケットの上から指で俺を押した。
余計なことを言うな、らしい。
◆
市場の端では、壊れた木箱が並べられていた。
盗賊団に蹴られたものだ。割れた板をダンが集め、使えるものと使えないものに分けている。金具の音が、朝の地面に小さく落ちた。
捕らえられた盗賊たちは、もう市場にはいなかった。夜のうちに、奥の空き家へ移されたらしい。縄の擦れる音も、今は聞こえない。
ただ、北の方角だけ、まだ少し薄い。
そこから来た。
そこへ、1人逃げた。
俺の知覚では、今朝の北に足音はなかった。少なくとも、届く範囲には。
『ネア』
「ん」
『北のほう、今は静かだ』
ネアは答えなかった。ポケットの上の指が、1度だけ止まった。
言わなくていい、という止まり方ではなかった。
でも、俺もそれ以上は言わなかった。
今の俺が「静かだ」と言ったところで、それは届く範囲が静かなだけだ。届かない場所まで安全にする力は、俺にはない。
石は、偉そうに警報器のふりをするべきではない。
たぶん。
◆
ヴェラは、いつもより早くパンを焼き上げた。
小さいものばかりだった。売り物にする大きさではない。子どもが片手で持って走れるくらいの丸いパンが、布の上に並んでいる。
「持ってきな」
ネアの手に、2つ置かれた。
「……お金」
「いらないよ」
「でも」
「今日は、いらない」
ヴェラの声は短かった。強くもなかった。ただ、そこで終わる声だった。
ネアはそれ以上、言わなかった。パンを受け取って、ポケットではなく、胸の前の布に包んだ。俺のいる場所と分けたのは、たぶん潰さないためだ。
タロの弟妹の方角から、小さい足音が聞こえた。戸の前で止まり、すぐに引っ込む。腹は減っている。でも出てこない。昨日、家の前に立っていた時の震えが、まだ少しだけ残っている。
ネアはパンを1つ、包みから出した。
「タロのとこ」
ヴェラが言うより先だった。
ネアは頷いて、歩いた。
戸口にパンを置く音がした。子どもの手が、すぐには伸びなかった。少し遅れて、布が擦れた。
「……ありがと」
小さい声だった。
ネアは返事をしなかった。
でも、戻る足音は急がなかった。
◆
「祭り、やるんだってよ」
昼前、タロがそう言った。
ネアはヴェラの店先で布を押さえていた。長い布だった。祭りの日に、店先へ吊るすらしい。何年も使っている布で、端の縫い目が何度も直されていた。
「祭り」
ネアが短く返す。
「知らねえのか」
「知ってる」
「じゃあ何だよ、その声」
「別に」
ヴェラが布の反対側で笑った。声にはしなかった。喉の奥だけで、少し揺れた。
廃都の祭り。
誰が始めたのか、何のためなのか、誰もはっきり言わない。屋台が出る。古い灯りを吊るす。子どもが走る。年寄りが、昔からそうだから、と言う。
そのくらいのものらしい。
でも、昨日のあとにその話が出ると、意味が少し変わる。
やる。
やめない。
それだけで、市場の足音が少し前へ出る。
ネアは布を畳んだ。角と角を合わせる動きが、いつもより丁寧だった。もう1度広げて、埃を払って、また畳む。
『手、早いな』
「……」
返事はなかった。
ただ、次の布を取るのが、少し早かった。
俺はそれ以上、聞かなかった。
◆
タロは、祭りの話を始めると止まらなかった。
「去年はリコが灯り倒しただろ」
「倒してない」
「倒した。俺、見た」
「見てない」
「見たって」
近くでリコの足音が止まった。小さい足が、地面を2回叩いた。
「倒してない!」
倒したやつの声だった。
市場に笑いが戻った。
大きな笑いではなかった。少し割れた茶碗を、まだ使えるか確かめるような笑いだった。それでも、笑いは笑いだった。
タロが急に黙った。
そして、ネアのポケットの方へ近づいてきた。
「なあ、石」
『なんだ』
ネアが面倒くさそうに通訳する。
「なんだ、って」
「石も祭り、出れるのか」
『……は?』
ネアが、ほんの少しだけ沈黙した。
そのまま伝えた。
「は、って」
「いや、だって、石様だろ」
(お前は俺を何だと思っている)
守り神扱いなのか、置物扱いなのか、たぶん本人も分かっていない。
『俺が何をするんだ。踊るのか』
ネアは伝えなかった。
「出ない、たぶん」
「たぶんかよ」
「石だから」
タロが納得したような、していないような足音で下がった。
「じゃあ、持ってくればいいだろ」
ネアの指が、ポケットの上で止まった。
短い沈黙だった。
「……考えとく」
タロの足音が、また跳ねた。
俺は何も言わなかった。
祭りに出る石、というものを、俺は知らない。
◆
午後は、祭りの準備になった。
誰かが古い灯りを出してきた。油の匂いが、空気に少し混じる。欠けた皿を集める音。棒を運ぶ音。子どもたちが布の下をくぐって、ヴェラに叱られる音。
ネアは店先の布を結んでいた。
背の高いところはタロがやった。低いところをネアが直す。タロの結び目は大きくて、少し緩い。ネアが無言でほどいて、結び直した。
「おい」
「ゆるい」
「落ちなきゃいいだろ」
「落ちる」
「落ちねえよ」
次の風で、布が少しずれた。
「……」
タロは何も言わなかった。
ネアが結び直した。今度は落ちなかった。
ポケットの中まで、ネアの指の動きが伝わってくる。布を引く時の力が、いつもよりほんの少しだけ軽い。疲れていないわけではない。昨日の重さは残っている。
それでも、手が止まらない。
『ネア』
「ん」
『似合ってるぞ。祭りの係』
「知らない」
でも、ほどいた紐を捨てずに、きちんと丸めて脇へ置いた。
それだけだった。
◆
夕方、ダンは市場の北側にいた。
人の輪から少し外れた場所で、煙管に火を入れていた。吸って、灰を落とす。板を1枚、足で押して端へ寄せる。もう1度吸う。
誰も近くにいなかった。
ネアはヴェラの店先で、最後の布を畳んでいた。タロはリコを追いかけていた。市場は、祭りの話で少し浮いていた。
その中で、ダンの声だけが低く落ちた。
「……妙だったな」
続きはなかった。
煙管の灰が、地面に落ちた。
俺は、その方角を聞いていた。
聞こえた、とネアに言うことはできた。
でも、言わなかった。
ダンが誰にも聞かせなかった言葉を、俺がわざわざ運ぶ理由がなかった。運んだところで、今すぐ何かが変わるわけでもない。
使えるものを、何でも使えばいいわけではない。
ポケットの中で、俺は黙った。
◆
夜、ネアは俺を机の上に置いた。
祭りの布の匂いが、まだ指に残っていた。古い油と埃と、少しだけ焼きたてのパンの匂い。ヴェラが帰り際に持たせた小さいパンを、ネアは半分だけ食べた。
残りは包んだ。
明日、誰かに渡すのだろう。
窓の外で、まだ市場の音がしていた。片付ける音。誰かが明日の準備を確認する声。タロが弟妹を連れて帰る足音。リコがまだ何か言い張っている声。
北の方角は、静かだった。
ダンの家の方角では、煙管の火が消えた。古い金属の小さな重さが、戸口の近くで一度だけ動いた。すぐに止まった。
祭りの灯りは、まだ点いていない。
それでも、油を入れた器の重さだけが、店先にいくつも並んでいた。明日を置いておく音だった。
ネアの寝息が、ゆっくり整っていく。
昨日とは違う。
昨日の前とも、少し違う。
でも、市場は明日の布を畳んでいた。祭りの灯りを出していた。子どもが叱られていた。パンが半分、残されていた。
俺は地面の奥を聞いた。
(明日も、誰かが布を畳むらしい)
祭り、らしい。
——出るかどうかは、知らない。
俺は、石だ。
たぶん、出ない。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
街は、まだ動いてるらしい。
祭りは、来週らしい。
——石より




