第34話「守り神は石だけじゃなかった」
ヴェラの家の戸の前で、しばらく、誰も動かなかった。地脈の振動だけが、ゆっくり、続いていた。
◆
ネアの呼吸が、戻った。
でも、足は戸の中に入らなかった。立ったままだった。指は、空を掴んだままだった。
タロのポケットの中で、石の俺はネアの呼吸を布越しに感じていた。地脈の振動でも、ネアの足音がまだ動かないのが分かった。靴の裏が、地面に張り付いたまま、動こうとしていなかった。
念話を送った。短くだった。
『……ネア』
「……」
返事はなかった。でも地脈の振動で、ネアの指がもう一度動いた。今度は空ではなく、自分の胸の前で、何かを確かめるように動いた。胸の前のポケットの厚みを、布の上から、撫でるような動きだった。そこに、いつもなら、俺がいるはずの場所だった。今は、いなかった。
ネアの足は、それでも動かなかった。
しばらく、空気が止まったように感じた。市場の音は、いつもどおりに戻っていた。籠を運ぶ音も、皿を片付ける音も、戻っていた。でもヴェラの家の戸の前だけ、空気の厚みが違った。誰もまだ、息を吐いていない厚みだった。
地脈の振動で、4人ぶんの呼吸の上下が、薄く感じ取れた。ヴェラ、ダン、タロ、ネア。誰も合っていなかった。揃えようとも、していなかった。それぞれが、自分の呼吸を、自分のリズムで、整えようとしていた。
◆
タロが、低い声で、何か言った。
「……戻る」
短く、それだけだった。
タロの足音が、市場の方向に動き始めた。子どもたち3人も続いた。ネアの足音が、その後ろについた。少し遅れていた。
ヴェラが戸の中で、しばらく動かなかった。それから戸を半分だけ閉めた。中の子どもの声は、半分、薄くなった。ヴェラの足音が、家の奥に向かって、しばらく聞こえなくなった。
ダンの足音が、市場の北の方角に動き始めた。動きは、ゆっくりだった。歩幅が広かった。
グラン爺の足音は、動かなかった。立ったまま、戸の前に残っていた。神殿跡には、戻らなかった。誰かを、待つ立ち方ではなかった。
◆
市場の北の方角の地脈の振動は、もうざわついていなかった。
盗賊団の武装の足音は、戻って来なかった。
代わりに、別の足音が動いていた。3人、4人。住民の足音だった。市場の角の家の住人たちの足音だった。何かを引きずっていた。重い物を引きずる音だった。武装の重さではなかった。縛られて、力の抜けた重さだった。
ダンの足音が、その方向へ合流した。
しばらくして、ダンの足音が、何度か止まった。地面にしゃがむ気配があった。手で何かを地面から拾う気配があった。
1度、ダンが立ち上がった。でも、何も言わなかった。
拾った物を、そのままポケットに入れた気配があった。地脈の振動で、ポケットに小さな金属の重さが加わったのが分かった。古い金属の、少し冷えた重さだった。いつもダンが入れている重さでは、なかった。
ダンの足音は、もう止まらなかった。
◆
市場の角で、住民の声が低く混じっていた。誰かが、誰かに、何かを問うていた。声は、低かった。
「……何人だ」
「……3人。あと、もう1人」
短い間があって、誰かが、低く息を吐いた。
「……逃げた、らしい」
「……追うか」
「……いや」
短い会話だった。誰の声かは、地脈の振動だけでは、はっきり分からなかった。でも最後の「いや」は、ダンの声だった。低い声だった。腹からは出ていない声だった。
追わなかった。
全員ではなかった。1人、逃げたらしかった。
誰が、どんな装備で、なぜ逃げたかは、誰も口にしなかった。
日が、傾き始めた。地脈の振動で、市場の影の伸び方が変わるのが、薄く分かった。石畳の温度が、下がり始めた側と、まだ温かい側に、はっきり分かれた。
◆
ネアの足音が、市場の角で止まった。タロが振り返った気配があった。
タロが、低く呼んだ。
「ネア。家、戻れ」
「……うん」
ネアが頷いた。でも、足は動かなかった。歩幅は揃えていた。地脈の振動で、足音の終わり方が、少しだけ、後ろに引っ張られていた。
タロが、しばらく、待った。急かさなかった。地脈の振動で、タロの足が、地面に張り付いたまま、動かないのが分かった。子どもたち3人は、タロの後ろで、自分の家の方へ、それぞれ散っていった。
地脈の振動で、ネアの指が何度か動いた。胸の前。それから、ポケットの上。それから、また胸の前。確かめている動きだった。何かが足りないのを、確かめている動きだった。
タロのポケットの中で、俺はそれを感じていた。
タロが、自分のポケットに手を入れた。
俺を握った。布越しではない、直接の指の温度だった。乾いた手だった。
タロが、俺をネアの方へ差し出した。
「……返す」
タロが、それだけ言って、ポケットの口を閉めた気配があった。指が、布から離れた。
ネアの手が、伸びた。受け取った。
ネアの指の温度が、戻ってきた。半年、ずっと、ポケットで聞いてきた指の温度だった。少し冷えていた。少し汗ばんでいた。それでも、知っている指の温度だった。
いつもよりほんの少しだけ、強く握っていた。
しばらく、握ったまま、動かなかった。それから、ネアが俺を、自分のポケットに、戻した。布の繊維の重なり方が、戻ってきた。地脈との接触面が、ネアの靴底ごし、薄く、戻ってきた。
◆
ネアの指が、ポケットの中で、俺を握ったまま、しばらく止まっていた。俺は、念話を送った。
『……ネア』
「うん」
『大丈夫か』
ネアが、しばらく、答えなかった。地脈の振動で、ネアの指がゆっくり緩んだ。それから、また、握った。
「……分かんな——」
ネアの声が、途中で切れた。続きはなかった。いつもの「分かんない」とは温度が違った。
『……そうか』
俺はそれだけ返した。
言わなかった。「俺は、何もしていない」とは、念話に出さなかった。
ネアが、少し歩いた。市場の角を外れた。家の方角ではなかった。ヴェラの家の方角でもなかった。
タロの家の方角だった。
◆
タロの家の前で、ネアの足音が止まった。
戸が少し開いていた。中から子どもの声が薄く聞こえた。タロの弟妹だった。誰かが面倒を見ているらしい声の混ざり方だった。フリンの声でも、ヴェラの声でもなかった。誰か、別の住民の女の人の声だった。
ネアが戸をもう少し開けた。中の子どもの声が、止まった。
「……ネア、ねえちゃん」
タロの弟だった。声が、少し震えていた。
ネアが、しばらく、何も言わなかった。それからポケットから、何かを取り出した。
パンの欠片だった。ヴェラがいつかネアに握らせたパンの、半分だった。ネアが食べずに、ずっとポケットに残していた半分だった。
ネアがそれを、子どもの方へ差し出した。
「……食べな」
短く、それだけ言った。
子どもが受け取った気配があった。受け取った時、子どもの指が少しだけ震えていた。地脈の振動で、それが分かった。もう1人の子の声も、奥から、薄く混じった。何か言いたそうな声だったが、言葉にはならなかった。
ネアが戸を、半分閉めた。それから、振り返った。歩き出した。
タロは、市場の角で、見ていた。動かなかった。何も、言わなかった。ネアが、タロの横を通り過ぎた。
「……ありがと」
タロが低い声で、ネアの背中に言った。
ネアは、振り返らなかった。歩幅は、崩さなかった。
でもネアの足音は、ほんの少しだけ、軽くなった。重さも、歩幅も、変わらなかった。地面に着く時の、音の長さだけが、ほんの少しだけ、短くなった。地脈の振動でしか、分からない違いだった。
◆
(ネアが、動いた)
俺だけじゃ、なかったらしい。
——たぶん。
ネアが、自分で歩いた。
俺は、ポケットで揺れていた。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「後日談」もよろしく。
祭り、みたいなものが、あるらしい。
——石より




