↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
147/169

8月25日『読めない地図』

挿絵(By みてみん)

 二階の棚に返却本を戻していたら、閲覧席から鉛筆の音がした。


 つま先立ちで上の段に背表紙を押し込んでから覗くと、大きな背中が二つ並んでいる。ハンスさんとエミールさんだ。机の上に紙が広がっていて、ハンスさんが何か描いている。エミールさんはその横で、自分の画帳を膝に抱えたまま、ハンスさんの手元を見ていた。


 棚の間から様子を見る。二人とも集中しているようなので、声をかけるのはやめた。もう少しだけ近い棚の整理に移った。


           ◇


「……ここの道幅、四歩分っすよ」


「四歩って、誰の四歩?」


「俺の四歩っす」


「ハンスの四歩は僕の六歩だよ」


 ハンスさんが顔を上げた。額の角質が、窓の光でうっすら光っている。エミールさんの言葉の意味を考えているらしい。しばらくして、もう一度紙に目を落とした。


「そっすね」


 机の上に広がっていたのは、工房街の地図だった。


 わたしは棚から本を一冊抜いて、戻すふりをしながらもう少しだけ近づいた。


「ここ、入口ってどっちなの?」


 エミールさんが、紙の端を指さしている。


「入口っすか。……ここっすよ」


「うん。でもこの図だと、どこから見ても同じ風に見える。上から見てるからかなぁ」


 ハンスさんが黙った。鉛筆を持ったまま、自分の図面を眺めている。


「うーん。歩く人の目線じゃないっすもんね」


 そこでわたしは棚の陰から出た。


「何の図面の話ですか?」


           ◇


 話を聞いた。


 八月最後の納夏祭。今年は坑道の影響もあっていつもより規模が大きいらしい。夜市に工房ごとに露店を出すから、広い街区に初めて来る人でも迷わない案内図がほしい。そこで二人に白羽の矢が立った。通りの配置は正確だけれど、「正確なだけだと読めない」と二人して立ち止まっていた。


「過去の案内図とか、参考にするのはどうです?」


「それ、探してたんすけど、見つからなくて」


 わたしは二階の棚をひと回りしてみた。確かに当てはまりそうなものがない。代わりに、他の街の旅行案内書と、古い市場の台帳が出てきた。


 三人で台帳を開く。地図ではなく、文字だけの一覧だった。『北通り入口より三軒目、金物屋テオの店』『角を曲がって二軒目、革細工のブルーノ工房』。


「……これ、地図じゃないけど、わかりやすいかも」


 エミールさんが小さな声で言った。


「順番があるっすよ。入口から数えてる」


 ハンスさんが台帳の文字を指でなぞっている。太い指が、細い字の上をゆっくり動く。


 旅行案内書の方も開く。こちらには地図があった。けど縮尺がおかしい。大通りが極端に短くて、路地が広くて長い。余白に誰かの走り書きがあった。


「『角の鍛冶場を過ぎると、風向きが変わる。南風を背にして道なりに歩き、交差を左』」


 わたしが読み上げると、エミールさんが顔を上げた。


「これ書いた人、ここ歩いてるみたいだね」


「走り書きの字、太いっす。指が太い人っすかね」


 ハンスさんらしい見方だと思った。


           ◇



「……匂いが描けたら」


 頭を少し傾けて、二人の顔を見た。


「鍛冶場は鉄の匂い、パン屋は焼きたてのパンの匂い。歩いてる人には、それが一番の目印ですよね」


 エミールさんが首をかしげて、鉛筆を握りしめた。


「匂い……描けるかなぁ」


「匂いに縮尺はないっすからねぇ」


「じゃあ、『ここで匂いが変わる』とかどうです? 欄外に書くとか――」


「文字でっすか?」


「それなら、鋳造所の前は熱いよね。通りがかるだけで暑い。そういうのを目印にするのも――」


「温度だったら、等高線みたいに描けるかもしれないっす」


 ハンスさんが真剣に考え始めた。紙に鉛筆を走らせ、エミールさんがその横から赤い印を足す。わたしも、通りの脇に「ここで匂いが変わる」と書き込んだ。


 エミールさんの声が少しだけ大きくなった。


「それじゃ、音とかはどうかな? 静かな方に歩いたら出口に近づくはずだよね」


「音の等高線っすか……」


 三人で次々に書き足していく。ハンスさんが通りの線を引き直し、エミールさんが煙突の絵を描き足す。わたしが「角を曲がると静か」と書き加えて、ハンスさんが音と匂いの等高線を描こうとして――波打った線が通りの上に重なった。


           ◇


 エミールさんが紙を持ち上げた。


「うん。……読めないね」


「読めないっす」


「読めないです」


 三人で顔を見合わせた。エミールさんが小さく笑って、ハンスさんの口の端も動いた。


「でもさ、全部いるんだよ。どれを抜いても、なにかが足りないよ」


 エミールさんの声は静かだったけれど、迷いがなかった。


「……案内図って、いつ見るんだろう」


 口に出してから、自分でも少し驚いた。でもハンスさんが顔を上げた。


「うーん。会場に着いた時っすよね」


「まずは全体を見るんだけど、歩いてる時は次の角を探してて――」


 エミールさんが、紙の上で鉛筆を止めた。


「二つに分けたほうがいいのかも。入口に貼る大きい地図と、手に持って歩く冊子とに分けてさ」


 ハンスさんが鉛筆を置いた。


「それじゃ、貼る方は俺が描くっす。通りと角の場所を、遠くからでも読めるように」


「じゃあ手に持つ方は僕が。お店までの目印と道順。煙突の絵とか、看板の図柄とか――」


 エミールさんがわたしの方を見た。


「そうだ、匂いの印。それはこっちの方の地図に合うんじゃないかな」


 頭を少し傾けた。同じ祭りの、同じ場所の地図。なのに、届け方が違う。


 指先が机の端に触れた。木目の凹凸が、妙にはっきり伝わる気がした。


           ◇


 閉館。二人が帰った閲覧席を片づける。


 机の上には、三人が思い思いに書き、読めなくなった地図が一枚。


 ――わたしの頭の中にも、こういうものがある、いくつも折り重なって、一枚ではおさまらないもの。


 消しゴムの屑を掌で集めた。鉛筆の粉と、エミールさんの赤い印の削りかす。


 地図の上のごちゃごちゃとした線が、少しだけ違って見える気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。