8月25日『読めない地図』
二階の棚に返却本を戻していたら、閲覧席から鉛筆の音がした。
つま先立ちで上の段に背表紙を押し込んでから覗くと、大きな背中が二つ並んでいる。ハンスさんとエミールさんだ。机の上に紙が広がっていて、ハンスさんが何か描いている。エミールさんはその横で、自分の画帳を膝に抱えたまま、ハンスさんの手元を見ていた。
棚の間から様子を見る。二人とも集中しているようなので、声をかけるのはやめた。もう少しだけ近い棚の整理に移った。
◇
「……ここの道幅、四歩分っすよ」
「四歩って、誰の四歩?」
「俺の四歩っす」
「ハンスの四歩は僕の六歩だよ」
ハンスさんが顔を上げた。額の角質が、窓の光でうっすら光っている。エミールさんの言葉の意味を考えているらしい。しばらくして、もう一度紙に目を落とした。
「そっすね」
机の上に広がっていたのは、工房街の地図だった。
わたしは棚から本を一冊抜いて、戻すふりをしながらもう少しだけ近づいた。
「ここ、入口ってどっちなの?」
エミールさんが、紙の端を指さしている。
「入口っすか。……ここっすよ」
「うん。でもこの図だと、どこから見ても同じ風に見える。上から見てるからかなぁ」
ハンスさんが黙った。鉛筆を持ったまま、自分の図面を眺めている。
「うーん。歩く人の目線じゃないっすもんね」
そこでわたしは棚の陰から出た。
「何の図面の話ですか?」
◇
話を聞いた。
八月最後の納夏祭。今年は坑道の影響もあっていつもより規模が大きいらしい。夜市に工房ごとに露店を出すから、広い街区に初めて来る人でも迷わない案内図がほしい。そこで二人に白羽の矢が立った。通りの配置は正確だけれど、「正確なだけだと読めない」と二人して立ち止まっていた。
「過去の案内図とか、参考にするのはどうです?」
「それ、探してたんすけど、見つからなくて」
わたしは二階の棚をひと回りしてみた。確かに当てはまりそうなものがない。代わりに、他の街の旅行案内書と、古い市場の台帳が出てきた。
三人で台帳を開く。地図ではなく、文字だけの一覧だった。『北通り入口より三軒目、金物屋テオの店』『角を曲がって二軒目、革細工のブルーノ工房』。
「……これ、地図じゃないけど、わかりやすいかも」
エミールさんが小さな声で言った。
「順番があるっすよ。入口から数えてる」
ハンスさんが台帳の文字を指でなぞっている。太い指が、細い字の上をゆっくり動く。
旅行案内書の方も開く。こちらには地図があった。けど縮尺がおかしい。大通りが極端に短くて、路地が広くて長い。余白に誰かの走り書きがあった。
「『角の鍛冶場を過ぎると、風向きが変わる。南風を背にして道なりに歩き、交差を左』」
わたしが読み上げると、エミールさんが顔を上げた。
「これ書いた人、ここ歩いてるみたいだね」
「走り書きの字、太いっす。指が太い人っすかね」
ハンスさんらしい見方だと思った。
◇
「……匂いが描けたら」
頭を少し傾けて、二人の顔を見た。
「鍛冶場は鉄の匂い、パン屋は焼きたてのパンの匂い。歩いてる人には、それが一番の目印ですよね」
エミールさんが首をかしげて、鉛筆を握りしめた。
「匂い……描けるかなぁ」
「匂いに縮尺はないっすからねぇ」
「じゃあ、『ここで匂いが変わる』とかどうです? 欄外に書くとか――」
「文字でっすか?」
「それなら、鋳造所の前は熱いよね。通りがかるだけで暑い。そういうのを目印にするのも――」
「温度だったら、等高線みたいに描けるかもしれないっす」
ハンスさんが真剣に考え始めた。紙に鉛筆を走らせ、エミールさんがその横から赤い印を足す。わたしも、通りの脇に「ここで匂いが変わる」と書き込んだ。
エミールさんの声が少しだけ大きくなった。
「それじゃ、音とかはどうかな? 静かな方に歩いたら出口に近づくはずだよね」
「音の等高線っすか……」
三人で次々に書き足していく。ハンスさんが通りの線を引き直し、エミールさんが煙突の絵を描き足す。わたしが「角を曲がると静か」と書き加えて、ハンスさんが音と匂いの等高線を描こうとして――波打った線が通りの上に重なった。
◇
エミールさんが紙を持ち上げた。
「うん。……読めないね」
「読めないっす」
「読めないです」
三人で顔を見合わせた。エミールさんが小さく笑って、ハンスさんの口の端も動いた。
「でもさ、全部いるんだよ。どれを抜いても、なにかが足りないよ」
エミールさんの声は静かだったけれど、迷いがなかった。
「……案内図って、いつ見るんだろう」
口に出してから、自分でも少し驚いた。でもハンスさんが顔を上げた。
「うーん。会場に着いた時っすよね」
「まずは全体を見るんだけど、歩いてる時は次の角を探してて――」
エミールさんが、紙の上で鉛筆を止めた。
「二つに分けたほうがいいのかも。入口に貼る大きい地図と、手に持って歩く冊子とに分けてさ」
ハンスさんが鉛筆を置いた。
「それじゃ、貼る方は俺が描くっす。通りと角の場所を、遠くからでも読めるように」
「じゃあ手に持つ方は僕が。お店までの目印と道順。煙突の絵とか、看板の図柄とか――」
エミールさんがわたしの方を見た。
「そうだ、匂いの印。それはこっちの方の地図に合うんじゃないかな」
頭を少し傾けた。同じ祭りの、同じ場所の地図。なのに、届け方が違う。
指先が机の端に触れた。木目の凹凸が、妙にはっきり伝わる気がした。
◇
閉館。二人が帰った閲覧席を片づける。
机の上には、三人が思い思いに書き、読めなくなった地図が一枚。
――わたしの頭の中にも、こういうものがある、いくつも折り重なって、一枚ではおさまらないもの。
消しゴムの屑を掌で集めた。鉛筆の粉と、エミールさんの赤い印の削りかす。
地図の上のごちゃごちゃとした線が、少しだけ違って見える気がした。




