8月24日『四角い理由』
カウンターの木目に午後の光が当たっている。
今日はチェザが使いに出ている。私ひとりのカウンター業務だった。
扉が開いて、年配の女性が入ってきた。鞄の口を開けたまま歩いてくる。腕を突っ込み、何かを探している顔。カウンターの前まで来て、ようやく顔を上げた。
「すみません、娘が預けていたものを受け取りに来たんですけれど」
取り出した紙片を差し出す。受付番号が書いてある。
「エルダさんのお母様ですね」
「ええ。孫が熱を出してしまって。あの子、来られなくて」
カウンターの奥の棚から、修復済みの品を出した。布張りのノート。『我が家の台所』――表紙に刺繍で題名が縫いつけてある。綴じが緩んでいたのを直し、糸のほつれた刺繍もきれいに補修されている。
ブリギッテと名乗ったその女性が、両手でノートを受け取り表紙を撫でた。刺繍の上を何度か往復して、鞄にしまった。
「ありがとうございます。助かりました」
◇
ブリギッテさんが帰りかけて、入口の手前で足を止め、振り返る。
「あ、そういえば。お菓子の作り方の本って、ございませんか?」
「お菓子、ですか」
「あの子に聞かれたのを思い出したんです。昔よく作ってたやつで、どうやって作るのって」
教えようとしたが、分量が出てこなかった。いつも目分量で作っていたから、と言って、ブリギッテさんは鞄の紐を握り直した。
「確か、こちらの図書館だったと思うのです。その本を見れば、思い出せるかなと思いまして」
「料理の棚でしたら二階です。ご案内します」
「あら、お願いしますね」
階段を上がりながら、ブリギッテさんはきょろきょろと書架を見回していた。二階に着くと、迷わずひとつの棚に歩いていく。
「ここ、思い出したわ。若い頃よく見てたのよ」
家庭向けの料理本が並ぶ棚から一冊を抜き取り、閲覧席に座った。ページを静かにめくり始める。
◇
最初に動きが止まったのは、序盤だった。何層にもバターを折り込んで焼く、パイ菓子の挿絵のページ。
「あの子がね、市場で見たのを作ってほしいって言ったの。確かそうね、八つか九つの頃だったわね」
挑戦したのだと言う。生地を伸ばして折ってまた伸ばし。正しい工程だったはずが、焼いてみたら層にならない。ばらばらに崩れて、天板の上に破片が散った。
「そしたらあの子、破片を摘んで食べて、『カリカリしておいしい』って」
次の挑戦では、わざと雑に折ってわざと崩れるように焼いたという。
「あの子ったら、全然気付かないんだもの」
ブリギッテさんが本から顔を上げて、こちらを見た。
「でもこれじゃないの。あの子が聞いてきたのは、これよりもっと前の――」
◇
中盤。砕いた木の実の生地を丸く焼き、粉砂糖をまぶす菓子のページ。ブリギッテさんが挿絵の輪郭をゆっくり辿っている。
「……この形」
四つか五つの頃。粉砂糖をまぶすはずだった菓子を、焼けた端から食べだした。
「かける前の味を先に覚えちゃったの。あとから粉砂糖をまぶしたのを出したら、あの子、こう」
ブリギッテさんが眉をひそめて見せた。怪訝な顔の再現らしい。
「だから今でもあの子、粉砂糖が苦手なの。かけないで食べるのよ。結局、完成形を知らないまま大人になって――」
少し間があった。ページの角を摘んだまま、視線が遠くなっている。
「……でもこれでもないわ。もっと前」
さらに遡る。
◇
後半。素朴な菓子が続くページに変わっていた。生地を天板に広げて焼き、四角に切り分ける菓子。挿絵も小さく、省略された図版だった。
ブリギッテさんの手が止まった。しばらく何も言わなかった。
「これだわ」
材料は三つだけ。混ぜて焼く。
「なぜ四角かっていうとね」
ブリギッテさんが自分の左腕を少し持ち上げた。何かを抱える仕草。
「あの子が一つか二つの頃。ぐずると降ろせなくてね。それで、片手でも作れるお菓子がこれだったの。丸める必要がないでしょう。型も要らない。生地を天板に押しつけて、平らにして、焼くだけ」
本の上で、無意識に何かを押し広げるような動きをしていた。
「焼ける匂いがすると泣き止んだの。だから泣き出すたびに焼いて――」
棚の端に背を預けたまま、聞いていた。窓から差す光の角度が傾き始めていた。ブリギッテさんが小さく首を傾げた。
「あの子が歩き出してから……作らなくなったわ。あの子、丸い菓子がいいとか、市場のがいいとか言い出して」
本の分量を見つめている。
「砂糖はこのくらいだったかしら……」
◇
結局、ブリギッテさんはその本を借りることにした。両手に一冊ずつ。ノートと、菓子の本。
帰り際、入口の手前でまた足を止めた。肩越しにこちらを見る。
「端の焦げたところが一番おいしいのよね。でもそれは本には書いてないわね」
扉が閉まった。
カウンターの上に甘い匂いが残っている気がした。ブリギッテさんの手に染みついた、いつかの焼き菓子の匂いが。
制作メモ:文体プロンプトv4。技法セクションが大幅に改稿される。




