8月23日『いつかの足音・後』
自分の足音が聞こえる。
石畳を踏む音が、朝の通りに落ちていく。日曜の煙突地区。槌音がなく、蒸気管だけが低く唸っている。いつもの私はこの時間、カウンターの内側にいる。扉が開く音を待っている側のはずだ。
今日は私が歩いている。
◇
「あんたがこんなとこに来るなんて。珍しいこともあるもんだ」
ザラの口が先に開いた。診療所の寝台。並んで腰を掛けている、馴染みの二人。
「見舞いかい?」
「状況を伺いに」
「それを見舞いっていうんだよ」
笑っているザラの腕に、筋になって残る痕が見えた。ウーツさんの三角耳が、いつもより赤い。
「……壁です」
ウーツさんが切り出した。
「壁が一面、未知の構造物に変わっていた。白い珊瑚状の物が張り付き、通路を塞いでいるのです。切った端から同じものがにじみ出して――」
「しつこい茨だよ」
ザラが腕を組んだ。
「紅獣なら核を撃ち抜けばいい。だが、あれにはそれが通じない」
ザラが寝台の端を指で叩いた。昨日、坑道の奥で追い詰められた人間の言葉。
「それに、フィルターが持たないんだ。水を吸って普通よりも早く、一時間もすれば使い物にならない。たぶん、あの白い霧のせいだ」
しばらく、誰も喋らなかった。壁の高い窓から光が斜めに入っている。昼過ぎの光だ。
「……急所がない脅威。戦うには、新しい発想の力が必要です」
ウーツさんが言い切った。ザラが天井を見たまま言った。
「装弾を作ったっていう、あの職人はどうしたんだい?」
「さあ。ダリア殿から聞いてはいるが、放浪の魔道具士という話だ。今どうしてるかは――」
窓の外。光の角度――この時間なら。
頭ではなく、身体が先に動いていた。あの人ならいつも、昼過ぎに古道具屋を回る。午前の仕入れが並ぶ頃合いを見計らう、二十年も前の習慣だ。
変わっていない保証はない――けれど。
私は立ち上がった。
◇
西部工房地区。竜骨堂。
廃業した大型の鍛冶工場を古道具市場に転用した建物だ。剥き出しの鉄骨の梁が船の竜骨に似ていることからそう呼ばれている。
天井が高い内部には、何十という古道具商が区画を分けて並んでいる。日曜の昼過ぎ――職人たちが掘り出し物を漁る時間。金属を叩いて確かめる音が、鉄骨にこだましている。
木箱が積み上がる棚と棚の間を通り抜け、耳を澄ませながら歩いた。鉄を弾く音、値を訊く声、靴底が床を擦る音、いくつも重なる足音。その中から、進んでは止まり、何かを手に取っては戻す。独特な間合いを探した。
三つ目の通路を抜けて、奥の区画に入ったとき、棚の端で足を止めた。
天窓からの西日が、木箱の角を黄色く照らしていた。その光の下で、誰かがしゃがんでいる。長い指で古い蝶番を摘み上げては、爪の先で表面を弾いて音を聴く。選り分けるように三つ弾き、二つを箱に戻すその所作。
背中越しに見える長い耳。記憶の中の耳より、ほんの少しだけ先端が垂れかけている。灰褐色の短い毛が、西日を受けて縁だけ明るい。
「入口で止まるの、やめなさい」
ウルスラは振り返らなかった。蝶番を光に照らしたまま言った。
「境目で必ず足を止める。ためらいの癖、変わらないね」
私は一歩踏み込んだ。ウルスラが蝶番を箱に戻し、ようやく振り返る。赤い瞳がこちらを見た。あの時のままの色だった。
「手、見せて」
「……はい」
ウルスラが私の手を取った。爪を見て、指の腹を親指で押し、手首の腱の上を撫でるように確かめる。道具を検品するときの、あの手つきだった。
「重いもの持ってないでしょ」
「はい。本を運ぶくらいです」
「道具としてはまだ使えるほうだね」
道具として。人の手をそう呼ぶ人はこの街にはいない。
「背、伸びたね」
それだけ言って、ウルスラはもう棚のほうに身体を向け直していた。次の蝶番を箱から拾い上げる。
「あ、そっか。当たり前か。あなた達は速いんだった。こないだ預けたと思ったら――」
「二十年ですよ」
「そ。だから、こないだ」
耳をこちらに向けたまま、手だけを別の生き物のように動かしている。爪で弾いた音の高さだけで、使えるものと使えないものを選り分けていく。
「そっか。困ってんだ。……でしょ?」
「……まだ何も言っていませんよ」
「肩、上がってるよ。本に頼ろうとする癖が出てる。で、本が無い時は、代わりに何か探して握ろうとするんだ」
私の右手は棚の縁を握りしめていた。指を離すと、掌に木の角の跡が残っている。
「坑道の話だね」
「……聞いていたんですか」
「ダリアから聞いたよ。壁に張り付く新種の話。私の見立てじゃ、あれは生きちゃいないよ。自動的に反応して動いてるだけの――」
私が口を開きかけると、ウルスラが先に続けた。
「で? 弾の改良を頼みに来たんでしょ。でも、それだけじゃないって顔してる」
「……」
「あなたはいつも、用事が一つの時はまっすぐ来る。二つの時は一度立ち止まる。様子見のその性格、変わってない」
考えが言葉になる前に、答えが返ってくる。あの頃はそれが当たり前だったけれど、今は――少し、違う。
「用事は、一つだけです」
ウルスラの耳がぴくりと動いた。蝶番を持つ手が止まっている。
「あなたに会いに来ました」
ウルスラは蝶番を箱に戻した。赤い瞳がこちらを見ていたが、表情は読めなかった。
◇
竜骨堂を出ると、西日が石畳を橙色に染めていた。朝歩いたときには無かった色だ。
二十年前、どこかの街の古道具屋で、毎日のように聞いたあの足音。
来た道を戻る自分の足音に、遠い記憶が重なっている気がした。




