8月22日『いつかの足音・前』
坑道に入って十歩。私はそれに気づいた。
瘴気に混じる甘い腐敗臭とは別の、生臭い潮のにおい。鉄嶺の坑道では本来嗅ぐはずのないものだ。
壁面に白いものがこびり付いている。無数に枝分かれした珊瑚のような骨格。その合間を半透明の触手が埋め、先端だけが淡い桃色に染まっている。触れると冷たく硬い。しかし周囲がわずかに温かい。
触手が揺れる。私の体温に反応して、ゆっくりと伸びてくる。走れば避けられる速度だが、この幅では横に逃げる余地がない。
「こっちです。左はまだ根が浅い」
隊列の三番目を歩く救護兵のカイルが、壁に手を当てたまま言った。体を石に押しつけ、壁の内側に広がる根の分布を読んでいる。
地図が通用しない。封鎖前まで通路だった場所が謎の白い骨格に塞がれている。代わりに見覚えのない分岐が開けていた。まるで誘い込むように通路の形が変わっていくのだ。
「壁と一体化している」
「はい。根が石の亀裂に――完全に食い込んでいます」
面の脅威。
切断は容易だ。刃を当てるだけで断てる。だが、その根が壁に残っている限り、切った端から組織がにじみ出してくる。……追いつかない。他の魔物とは質が違う。この白い構造物には倒すべき核がない。
分岐のたび、壁に光刃を当てた。根を焼いた跡は再生に時間がかかる。帰りの目印になるはずだ。
◇
第二層の中頃で、フェイの隊を見つけた。
十二人。通路の広い場所に固まって、背中合わせに周囲を警戒している。壁面の白い構造物が天井まで伸び、通路の幅を半分に狭めていた。足元には切断された骨格の破片が散らばっている。排除を試みて、諦めた痕跡。
「ウーツさん」
フェイが駆け寄る。声に安堵がにじんでいたが、報告は正確だった。
「突入して三十分ほどは順調でした。隊長……ザラさんが先行して、私たちが後続で。ところが坑道の壁が――動き始めたとしか言えません。来た道が塞がって、新しい通路が開いて。……見失いました」
「撤退を」
「……はい、すぐに。ですが、三十分前に通った場所がもうないんです」
来た道が消えている。亡者道という古い話を思い出す。帰路が消える、死者の話だ。
カイルを呼んだ。
「フェイ殿の隊に合流し、撤退経路を確保してください。壁の根が浅い方向を辿れば、入口に近づけるはず」
カイルが頷く。フェイが口を開きかけ、何かを飲み込んで敬礼に変えた。
私は指輪に触れた。銀と黒曜石。右手の二つの指輪の感触を確かめてから、フードを深く引く。
「ザラ殿ならば、無事先に進んでいるでしょう。……しかし、撤退の直感が欠けているようではあります」
皮肉ではない。あの人はいつでも前にいる。
◇
弾を数えた。あと三発。
無事なほうの壁に背をつけた。息が浅い。フィルターが水を吸って、呼吸するたびに抵抗がある。白い霧がマスクの縁から滲み込んでくるのが分かる。
逃げた先がさらに深い場所で、封鎖中に再生した紅獣どもと出くわす。一体を装弾で仕留め、仕留めた先にまた分岐。分岐の先でさらに一体と鉢合わせる。猟犬から逃れた獲物が、別の獣の巣に飛び込む。……そういう連鎖の中にいる。
二体目に最後から二発目を撃ち込んだ。残弾一発。通路の奥で、また何かが動き出す気配がある。
壁のきしむ音が四方から届く。白い骨格が伸びていく音だ。通路がだんだん狭まっている。触手が足首に触れて、振り払う。皮膚がひりつく、この感覚。
――これを、知っている。ずっと昔のことだ。
◇
その頃、あたしはまだ一人だった。
夕暮れの匂い。煉瓦の埃と、どこかの厨房から流れてくる油の匂い。坑道の潮臭さとは何もかもが違う、人の匂い。
どこの街だったかは、もう覚えていない。路地裏の依頼。盗賊団を追い込んだつもりが、逆に囲まれていた。向こうは確か六人。多勢に無勢は慣れっこだったけど、最悪のタイミングで短銃が黙った。場所が悪かったんだ。装填口に砂利が噛み、引き金を引いても弾が出ない。
能力を込めた格闘でなんとか二人倒したところで、壁際に追い詰められた。残り四人。蹴りの間合いに入れない角度で囲まれた。四人を同時に落とすほどの出力は、あの頃のあたしにはもう出せなかった。
――足音だ。
路地の奥から。軽やかな歩く音。
声が先だった。姿より先に、声だけが届く。
「――伏せて」
短い声。あたしは考える前に伏せていた。
頭の上を何かが通過する。輝く空気の圧だ。護符から解き放たれた力がやつらの足元を崩し、石畳が隆起して陣形を砕いた。あたしはその隙を逃さない。蹴りでやつらをなぎ倒した。
振り返ると――少女だった。小さな護符を握りしめている。
銀色と青が混じった髪が、夕暮れの光の中で揺れていた。
「大丈夫?」
あたしよりずっと静かな呼吸。それが妙に腹立たしく、けど同時に、肩から力が抜けていくのが分かる。
「――あんた、名前は」
あたしはその名前をすぐには覚えなかった。覚えていたのは銀と青の色と、声の静けさだけ。名前と顔が繋がったのは、それからもっと後のことだ。
あたしはずっと一人だった。一人でいることに慣れ、それが当たり前と思っていた。誰かの足音など期待してはいない。背中を預ける相手など、いなくても構わないと信じていた。
それが変わった日のことを。あの足音を、あたしはまだ覚えている。
◇
壁のきしむ音が止み、光の筋が走った。
背後の壁の一箇所で、白い骨格が萎れるように崩れていく。朽ちている。枝分かれした構造が粉になって落ちる。
崩れた壁の向こうに、灰色のフード。フードの縁から覗く三角耳。翡翠色の瞳。
「遅くなりました、ザラ殿」
あたしは笑ったかもしれない。笑ったかどうか、自分では分からなかったが。
「……文句しか出ないよ」
「元気そうで何よりだ」
あの時とは少しだけ、声の温度が違う。
「フェイ殿の隊が退路を押さえている。こっちだ」
走り出した。前をウーツが行く。灰色のフードが揺れて、三角耳が暗い坑道の中で上下している。
あたしは一度だけ振り返った。白い壁が、もう道を閉じかけていた。




