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8月21日『余白の稜線』

挿絵(By みてみん)

 絵具の匂いがした。鍛冶地区の煤ではない、もっと鮮やかな油の匂いだ。


 カウンターに立ったのは、小柄な女性だった。丸い耳。指が細く、爪の間に青い絵具が残っていた。


「すみません、海の風景画が載っている本を探していまして」


 波の色の参考にしたい、と言う。宿屋の食堂に飾る絵を描いている。嵐の時の雨漏りで古い額が駄目になり、新しく描くことになった。


「――ただ、もう一人いるんですよ、同じことを言い出した人が。私と同じ旅の画家でね。体の大きい人で、山を描くって譲らないの。あたしは断然海なんですけど」


 壁にかけられるのは一枚だけ。宿の主人はどちらにも断れなかったらしい。


「良いほうを飾りますからって――あたしのほうがいいに決まってるんですけど」


 笑いながら言う。二階への階段を案内すると、階段の途中で足が止まった。


 地誌棚の前に、大きな背中があった。天井の梁に届きそうな角を傾けて、猫背の大男が画集を覗き込んでいる。


「……あれ?」


 大男が振り向いた。座ったままでも、立っている彼女より目線が高い。


「おう」


「あなたも来てたんだ」


「稜線の色を確認しにな。君は、確か――」


「マルセル。……あたしは波の色のことで」


 間。


「なんだ。考えることは一緒じゃない」


「山と海。……正反対だけどな」


 大男の口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。


           ◇


 一階に降りてきた二人が、閲覧席の大きなテーブルに向かい合って座る。大男が鉄嶺山を写した地誌の画集を、女性は航路図鑑を、それぞれ手前に広げた。


 鉛筆が紙を走る音が二つ、カウンターまで届く。隣の席では貝殻さんとトビアスが、同じようにテーブルを挟んで絵を描いていた。奥の席では、四本の腕が針と糸を動かしている。


 金曜の午後。いつもの空気に、旅人の鉛筆が混じる。


 最初に口を開いたのは大男――アドリアンのほうだった。マルセルの航路図鑑を覗き込んだ。


「この波頭の白、いいな。風を写してる」


「この絵師、上手だよね。でもあたしなら、白をもう少し散らすかな」


 マルセルがこちらの画集を横目で見る。


「あの山って、朝と夕方で全然色が変わるんだね」


「岩山は自分では色を持たない。空の光を借りるんだ」


「海も同じ。空をそのまま映すんだよね」


「似ている、か」


「似てる。まあでも、山は動かない。海は動く。そこが違うところだね」


 大男が画集を閉じかけて、止めた。


「山は朝がいいんだ。全てが一瞬赤く染まる」


「一瞬? どのくらい?」


「さあ。長くはないが、朝の赤は目を閉じても残る」


 マルセルの鉛筆が止まった。


「あたしの街の夕焼けは一時間は続くよ。海の端から端までゆっくりと色が変わっていくの」


「日の光は、見るもんじゃなくて浴びるもんだろう?」


「あたしは浴びたことないなあ。海の色を、いつも目で追いかけて――」


「まるで逃げる相手を捕まえようとしてるみたいだな」


「ふふ。そうかもね」


 気がつくと、アドリアンの手元に航路図鑑があった。マルセルの手元に地誌の画集。いつの間にか入れ替わり、どちらが寄せたのか、どちらも覚えていない顔をしている。


           ◇


「水平線、随分上に置くんだな」


 アドリアンが手帳を覗いた。水平線のスケッチが、ページの上のほうに引かれている。


「海が主役。水平線はただの境目じゃないの」


「俺の稜線は下のほうだ。空を大きく見せたくてね」


「同じだね」


「同じ?」


「あたしは海を大きく見せたい。やっぱり同じだよ」


 マルセルが鉛筆を置いた。


「そこ。煙突の煙、どこまで描くつもり?」


「中腹で。途中で消えて、風景に溶け込ませる」


「あたしの水平線も同じ。境目をはっきりさせちゃ駄目なのよね」


 アドリアンの鉛筆がテーブルの上で転がる。


「……面白いことを言うな」


「輪郭を残したら絵が止まっちゃう。混ざり合っているところが一番きれいなのよ」


「ああ。だが言葉にしたことはなかった」


「描けば伝わる。……それでここまでやってきたんだし」


「まあ、そうだな」


 今度は、マルセルが手帳を覗き込む。山のスケッチの余白に、水平線が一本引いてあるのを見つけた。


「……これ、いつ描いたの」


「あんたのを聞いてたら。描きたくなった」


「ほら。あたしの手帳にも――」


 ページの隅に、小さな三角の稜線。


           ◇


「うーん。一枚の壁に二枚は並ばないよ。食堂の壁、そんなに広くないしさ」


「ああ。しかし、あの主人にどちらかを選ばせるのは酷だ」


 二人とも、宿の主人の性分を知っている。


「あの」


 近くの席から声がした。


 淡い黄緑色の外皮に、四本の腕。膝の上に刺繍布を広げた小柄な少女、ルエルが二人のテーブルに近づいてきた。


「すみません。あの、刺繍なら、一枚の布の両面に別の模様を入れられますよ?」


 アドリアンが見下ろし、マルセルが首を傾けた。


「両面?」


「はい。裏糸の渡し方で、表と違う図柄を組めるんです。一枚の布の中に、二つの景色が背中合わせで住んでるような」


 二人が見合わせた。


「額、外さなくていいのか?」


「はい。布をくるりと回すだけです!」


 マルセルが頬杖をつく。


「なるほど。気が向いたらいつでも変えられる。一枚のままで――」


 アドリアンが椅子の背にもたれ、腕を組んだ。


「どっちを出しても、もう片方がそこにある、と」


 ルエルの複眼がきょろきょろと左右に動き、考え込む二人の様子を見やる。


「では、最初はどちらが表を――」


「海」「山だ」


 ルエルの言葉を二人が同時に遮った。


 マルセルが先に笑い出し、アドリアンが少しだけ遅れて笑った。


           ◇


 三人が連れ立って出ていった。ファーデン工房に相談に行くらしい。チェザが見送りに出た。


 大きな影のそばに、小さな影が二つ。三段の影が夕方の石畳に伸びている。


 窓際の席でトビアスがぱちぱちと瞬いた。


「おねえちゃん。あの人たち、なかよしだね」


 カウンターの上に、山の画集と海の図鑑が並んで残っていた。


 二冊のあいだに、鉛筆が一本。どちらの鉛筆かは、わからない。

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