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8月20日『朝花』

挿絵(By みてみん)

 閉館まで一時間を切った頃、カウンターに見慣れない手が置かれた。


 日焼けして、指が太い。手が爪の間まで黒い。


「ニッカって子、ここにいる?」


 垂れた耳。短い尻尾。中庭にいらっしゃると思いますと答えると、「ありがとう」とだけ言って歩き出した。通路の石の柱に手を触れ、指の腹で角を確かめる仕草をした。


           ◇


「おばちゃん! なんでここに?」


 中庭で三角の耳が弾けた。ニッカだ。


「ご飯。千華亭でしょ? 妹が待ってるよ。明日には帰るんだから」


「もうちょっとだけ! あ。せっかくだから中見ていってよ!」


 カイヤと呼ばれた女性は返事をしないまま、ケヤキの幹に手を当てていた。


「あら、いい木ね」


 少し間があった。


「かわいい」


「かわいいってことはないでしょ、結構立派だよこれ」


「うちの窯のそばのはね、この子を十本束ねたくらいだよ。幹に穴があいてて、人が三人くらい入れるの。雨の日はよくそこで昼寝するもんさ」


「……お母さんに聞いてるけど、十本はさすがに盛ってない?」


「盛ってない盛ってない。普通よ」


「それもう洞窟じゃん」


「洞窟は石でしょ。木のは(うろ)っていうのよ」


 ニッカが試香紙を広げた。ケヤキの根元の樹液の匂い。


「匂いに字いるの?」


「記録だよ! 書いておかないと忘れるじゃん」


「忘れるかな」


 カイヤさんがケヤキの幹にもう一度触れた。


「この木、まだまだ若いね。老木とは違う匂いだ」


「どう違うの?」


「街の老木のほうが……深いのよね」


「えー。おばちゃん、それだけ? あたしなら三つは成分挙げられるけど」


「それだけで十分よ。あたしにはね」


「あ、そうだ。向こうの棚に森の絵本があるんだよ。読んでこうよ」


「……字は少ないほうがいいわ」


           ◇


 二人が書架のほうへ歩いていく。


 ニッカが抜いたのは『森のともだち』――以前孫に読み聞かせていた老婦人がいた本だ。


「きれいだね。ほら、一面の森に、花も咲いてる」


「グローヴにもこういう花があるんだ。春先の朝だけ咲いて、昼には閉じる」


 神の森(ゴッズグローヴ)――インニクタティの都市全体を覆う巨木の森。


「お母さんから聞いた気がする。確か、朝花?」


「他の呼び方は聞いたことないね。窯に火を入れる前に婆ちゃんとよく摘んだもんさ。窯が温まる頃にはもう閉じちゃって、朝しか摘めない。だから朝花」


「ふうん。おばちゃんのとこもこんな感じなんだ」


「そうね。ここに描いてあるの全部で、うちの枝くらいかな」


「これが? 枝って――」


「春になって葉が広がると、この絵くらいの広さになるのよ。子供の頃、初めて冠に登ってね。空って青いんだねえ、ってその時初めて――」


           ◇


「フリアの昔話も読んであげるよ」


 ニッカが持ってきたのは『鉄の都の昔話』。ルッツが前に弟と一緒に借りていった本。


 ――昔、腕の悪い鍛冶師がいました。ある日、打った剣の切れ味が急に良くなったという。街の者はたいそう不思議がり――


「炭だろ」


 ニッカの声が止まった。


「……まだ何も起きてないよ?」


「だって、切れ味が変わるのは炭だもの」


「えー違うよ。続き読むよ?」


 ――ちょうどその頃、鍛冶師の家に炭焼きの娘が出入りするようになっとった。街の者は口々に言った。『嫁を貰って腕が上がったのだ』『夫婦の愛の力に違いない』――


「嫁が炭を持ってきたんだね」


「おばちゃん! もう読まない!」


「ごめんごめん。でもそうじゃない? 炭焼きの娘なんだから」


 ニッカがページをめくって結末を確認した。耳が横に倒れる。


「……その通りだった。えー、なにこの話」


「婆ちゃんもよく言ってたわ。『鍛冶の半分はいい炭だ』って」


「じゃあこの話、愛の話じゃなくて炭の話じゃない」


 ページをめくっていくと、一箇所だけ角が折ってある。炭の場面だった。二人が揃って窯に向き合う様子。


「この人。おばちゃんみたいな人かも」


「こんな遠くまで来るかな」


「来てるじゃん、今」


 カイヤさんの口元がわずかに動いた。


           ◇


 チェザが画集を持ってきた。『十二都市風景画集』。春に翼の少女が返していった本だ。


 ページをめくる。ニッカの耳がぴくりと動いた。


「押し葉の痕がある」


「この形は楢だね」


 カイヤさんは絵を見ていた。巨木の幹を見上げる図版。根元に人の影が豆粒のように添えてある。


 カイヤさんの指が、一点を指した。


「……ここ。ここの根曲がり。うちの窯のそばだわ。この窪み、雨の日は水がよく溜まるんだ。婆ちゃんがよく洗い物に使ってた場所で――」


「へえ」


 ニッカが覗き込んだ。


「今の様子とも少し違う。懐かしいね。……ここまで描くのも、なかなか大変だったろう」


「おばちゃんの街って、こんな木なんだね」


 窓の外が暗くなり始めていた。


           ◇


「すみません。叔母がお世話になりまして」


「迷惑かけたのはあんたでしょ。ほら、千華亭。先に行ってるからね。……あ、そうそう」


 カイヤさんが鞄から小さな包みを出した。


 ニッカが開く。薄い紙に挟まれた白い花。乾いて色は褪せているが、花弁の形が残っている。鼻を寄せ、耳がぴんと立った。


「……朝花だ」


「今年の春咲いたの。婆ちゃんの木の根元にね」


 それだけ言って、カイヤさんは扉を出ていった。


 カウンターの上。試香紙が一枚。


 ニッカの太い字で「杉 蜜蝋 夏」。その横に「楢 朝花」。

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