8月19日『潜鐘』
蒸気管が低く鳴っている。街の音がひとつずつ復旧していく水曜の朝だった。
雨に洗われた窓ガラスが、いつもより素直に光を通す。
カウンターに立つ。槌音、石畳を歩く靴底。その中に、いつも混ざっていたはずのものが混ざっていない。そんな気がした。何が足りないのかは、まだわからない。
◇
大きな影が正面の扉に立っていた。
頭が鴨居に届きそうな体躯。猫背にすることで辛うじて通り抜けている。左右の角が非対称で、片方だけが短い。首筋に古い火傷の痕が覗き、襟を立てているのに隠しきれない。
腰に下がった道具袋が、体の大きさに対してずいぶんと小さい。精密な機器を扱う者の持ち物だ。
坑道通信士のヨーゼフ。今月三度目の来館になる。前の二回は、坑道に設置した通信装置の規格を調べに来た。
「今日は何をお探しですか」
「……わかりません」
少し間を置いて、声が続く。
「詰所に座っているだけなのは、どうにも居心地が悪くて」
坑道の匂い。金属と、湿った土と、防護具の革の匂い。二日前閉じられた場所の空気を、まだ纏っている。
技術棚を案内した。二階の外周書架の前で、ヨーゼフがしゃがみ込んだ。二メートルを超える体が折り畳まれ、棚の前に収まる。背表紙を指でなぞっている。目的のない手つきだった。
◇
しばらくして、閲覧席に鉱山運用書が開かれた。坑道で使われてきた通信技術の集成。ヨーゼフには椅子が小さすぎるらしく、膝を折って腰を浮かせるような姿勢でページをめくる。
管叩き信号、圧搾空気笛、鐘信号。知っているものを確認しているだけの手つきで、表情は動かない。
「管を叩いて百メートル。蒸気管の共鳴も似たようなものです。あの坑道の規模には、足りない」
独り言なのか、近くにいた私に向けた言葉なのか。低い声はどちらとも取れた。
ページをめくる手が止まった。欄外だった。本文とは違うインクの色で、後から足された手書きの文字。鉱山師の実務メモだろう。
――水ノ口の区画は音がよく走る。乾いた坑より倍は持つ。蒸気管を叩いたとき、水溜りの先まで聞こえたと、下ノ番が言っていた。
ヨーゼフの指がその行の上で止まった。
水ノ口。三番坑の古い俗称だ。地下水脈が横切る、湿った坑道。膝下まで水がある中継点を、彼は何ヶ月も通い続けていたはずだった。機材が湿気で傷む場所。道具袋を高く持たなければならない場所。
「……水か」
声の速度が変わった。低いまま、けれど言葉と言葉の間が詰まっていく。走り書きの上を、何度かなぞった。
◇
梯子の木が軋む音。
チェザが技術棚の高い位置にある図面筒を探していた。別の利用者に頼まれた資料だろう。三段目に手を伸ばしている。
ヨーゼフが顔を上げる。立ち上がれば楽に届く高さだった。
「お嬢さん、届きますか」
「ありがとうございます。大丈夫です」
チェザが笑って筒を抜き取った。梯子の上と下で一瞬だけ目が合う。ヨーゼフの目線の高さに、チェザの足がある。
降りてきたチェザの視線が、開かれたままの鉱山運用書に触れた。
ヨーゼフが走り書きの一行をなぞりながら呟く。
「昔の方法だとせいぜい数百メートル。水のある区画で距離が伸びるとあるが、水溜りは一箇所だ。坑道の全域を繋ぐことはできない」
「……潜鐘」
チェザの呟きにヨーゼフが顔を上げた。
「港に水の中に沈めた鐘があるんです。見えない霧の日とかに鳴らすもので――港の入口に並んでいて、水を伝う鐘の音で場所がわかるんです」
ヨーゼフは黙って聞いていた。チェザがもう一言だけ続けた。
「鯨は何百里も先の声を聞くって、漁師さんがよく言っていました。水の中に暮らしていると、遠い声のほうが近く聞こえるようだと」
水の中に暮らしている。その一言の主語がどこにあるのか、考えかけて、やめた。
ヨーゼフは別のことを考えている。技術的な関心が、視線を鉱山運用書に引き戻していた。
「そうだ。港湾技術誌は置いてありませんか?」
◇
資料棚の端を探って、背表紙に波の文様が入った一冊を抜く。以前に棚を整理したとき、この本の分類に迷った記憶がある。鉱山技術でも航海術でもない。海が遠いこの街では、誰のための本なのかわからなかった。
ヨーゼフは鉱山運用書の隣にそれを置いた。鉱山と港。二冊の本が、窓際の小さな閲覧席に並んだ。
午前の業務に戻る。カウンター業務をチェザに任せ、書架の整理に回る。図書館の日常が動き出す。
窓枠の影が角度を変えた頃。見回りを終えてカウンターに戻ると、ヨーゼフがいた。鉱山運用書を開いたまま抱えている。壁に突き当たった顔だった。
「坑道を水に沈めるわけにはいきませんからね」
大きな体に見合った重さのため息が落ちた。
カウンターの端。さっきチェザが取った図面筒と同じ型のものが一本置いてあった。午前の利用者が返却した分だ。蓋を開けて中を確かめる。年に一度、この皮膜を塗り直すのも司書の仕事だった。
筒を持ったまま、ヨーゼフに見せた。
「この筒。内側に水を弾く処理がしてあります。紙を湿気から守るためのものです」
ヨーゼフが筒を覗き込んだ。
「これとは逆に、水を引き寄せる魔道具があると聞いたことがあります。水の中で使う道具に、薄い水の膜をまとわせる――そういう加工法があると」
チェザが振り向いた。
「潜鐘にも使うやつです。鐘の表面に水がぴったりくっつくように。泡が入ると音がおかしくなるらしくて」
「魔道具――」
ヨーゼフの視線が筒から離れた。
「そういったものを加工できる方が、この街にもいるんでしょうか」
答えなかった。いるかもしれない。振動を結晶に封じ込める技術を持つ者――けれどそれは推測であって、名前を口にするだけの根拠が、まだない。
装弾の表面に刻まれた、あの精密な刻印が浮かんだ。
◇
「また来ます」
ヨーゼフが去った閲覧席を片付ける。
二冊を棚に戻し、図面筒の蓋を閉めた。内壁の滑らかさが指に残っている。




