8月18日『師匠がさ、』
火曜の朝。今日は湿気が重い。
嵐の翌朝の図書館は、石と紙が水を吸い込んだ匂いで満ちていた。窓の結露を拭いていたら、二階の窓硝子に蛇行するひびを一本みつけた。彼女に報告すると、硝子工ギルドに連絡を入れてくれた。三階の蔵書も確認しなければならない。
扉が静かに開いた。
深緑の鱗をした修復師が鞄を肩に入ってきた。いつもの時間。いつもの足音。
「……湿ってるな」
三階の棚の状態を伝えると、鞄を揺らさず二段飛ばしで上がっていった。火曜日のザルツさん。
◇
こん、と金属が床石を叩く音。杖をついた女の人。声が低い。まっすぐ応接室へ案内される。
「地誌を見たいの。古いほうをね」
彼女が棚から三冊抜いて届け、応接室の扉がゆっくりと閉まった。
入れ違いに一階に響く声。
「ナディです!」
道具箱を肩に提げた硝子職人が、入口で手を振っていた。金色の瞳が笑っている。
彼女の声がカウンターの奥から聞こえた。
「見回りをお願いしますね」
◇
三階。
紙の匂いが濃い。ザルツさんが棚の端で、湿気を吸った紙を一枚ずつ広げている。指先だけが動いて、手首から先は揺れない。不思議な手つきだった。
「紙って、水に弱いんですね」
「弱いわけじゃない。付き合い方を間違えるだけだ」
短い言葉だった。それきり黙って手を動かしている。手伝おうとしたら、「このくらいでいい。広げすぎると繊維が伸びる」と言われた。
でもその言い方は冷たくなくて、紙に触るときと同じ丁寧さだった。
◇
二階。
窓枠のそばに道具箱を広げたナディさんが、硝子のひびに指を沿わせていた。目を閉じている。鱗の並んだ冷たそうな手。ザルツさんの手に似ている、と思った。
「硝子のひび、読めるんですか?」
「読めるよー。師匠がさ、『ひびは硝子の……日記? 手紙?』あれ?――なんかもっとカッコよかったかしら。『ひびは硝子の履歴書だ』! いや『人生だ』? ダメだ、もう原型がない!」
自分で笑っている。鼻の頭を掻きながら、「まあ要するに、ひびを見ればどんな力がかかったかわかるの」と続けた。
三階の修復師さんも、紙の傷を読むと言っていた。似ている。けれどザルツさんは師匠の名前を出さなかった。ナディさんは「師匠がさ、」を何度も使う。
◇
三階に戻ると、ザルツさんが窓のそばで立ち止まっている。三階の窓はまだ閉めたままで、空気がこもっていた。
「二階なら窓を開けて作業してますよ。風が通っていて、気持ちいいです」
ザルツさんの鼻の穴が広がった。少しの間があって、本を数冊抱えて階段を降りた。
二階の窓際。ナディさんの数メートル先に、ザルツさんが本を広げ始めた。
「……あ」
金色の瞳が振り向いたが、ザルツさんは本に視線を落としたまま応えない。
ナディさんが硝子に向き直り、指が一瞬だけ止まって、すぐに動き出した。
お茶を淹れて持っていく。盆の上に二つ。何もおかしくない、と思った。
◇
ナディさんが外した硝子を台に置いた。
「このひび、面白いでしょ? 打痕がないの。何かがぶつかったわけじゃない。始まりがここ――枠の近く。ゆるく蛇行してる」
「風で割れたんじゃないんですか?」
「風なら外からでしょ。これ、内側から押されてるのよ。嵐の間、窓を全部閉め切ってたから、中の空気が行き場をなくした。建物の呼吸を受け止めきれなかったんだ」
「呼吸?」
「うん。建物って、閉じると息をしてるの。人間と同じ」
数メートル先で、ザルツさんが顔を上げないまま口を開いた。
「……紙もだな」
ナディさんがちらりと見た。
「閉じた本の中で、紙は膨張する。湿度が変わって繊維が動く。本も息をしてる」
ナディさんの金色の瞳が大きくなった。笑った。
「さらっと言ってるけど、ああいうのって師匠の言葉なのよ。自分の言葉みたいに出てくるの。ずるいよねえ」
ナディさんがわたしに向かって言った。ザルツさんにも聞こえる声で。
「余計なことは言わなくていい」
ナディさんが鼻の頭を掻いた。
「私なんかさ、師匠に怒られるの。『ナディ、お前はいい加減だな』って。変えてるつもりはないんだけどなぁ」
ザルツさんの口の端が動いた。縦長の瞳孔が丸くなっている。
「……使い込んだ道具は、持ち主に似てくるもんだ」
ナディさんの指が止まった。
「あはは。ねえ、それ、師匠さんの言葉?」
「いや。自分のだ」
「へえ」
二人がそれぞれの作業に戻った。鱗の並んだ手が、片方は硝子を、片方は紙を扱っている。
◇
一階に降りると、朝の杖の女の人がカウンターに立っていた。革の鞄に筒が一本増えている。
「――坑道が霧に包まれてね。紫じゃない。今までに見た事のない、白くて分厚い」
「嵐の影響でしょうか」
「おそらく。ただ、思い返せば、嵐の前からいくつか兆候はあった」
声が低い。杖を持たないほうの手で、手袋の端を引いている。手袋の下に、紫の斑がのぞいていた。
「地誌に興味深い記述が見つかったのよ。古い坑道の地下水の記録」
そこに、ナディさんが道具箱を肩に提げて二階から降りてきた。
「……地下水?」
カウンターのそばまで来て、杖の女の人の声が耳に入ったらしい。
「ええ。坑道の霧が変わったのと、無関係とは思えない」
ナディさんが首を傾けた。
「窓もそうだったの。ひびが内側から来ててさ。この建物の湿気、嵐だけのせいじゃないのかも」
こん。杖が床を一度叩いた。考えている音だった。
「ありがとう。整理してから報告するわ」
杖の女の人が玄関に向かい、ナディさんも道具箱を肩に提げて後に続いた。
少し遅れてザルツさんが二階から降りてきた。
「三階の本、しばらくしたら裏返しておいてくれるか。表が乾いたら裏も風に当てるように」
「わかりました。広げすぎないように、ですよね」
ザルツさんの鼻の穴がわずかに広がった。
「ああ。またな」
頷いて玄関に向かう。道具箱を肩にかけ直しているナディさんの横を通り過ぎる。と、金色の瞳が一度だけザルツさんの背中を見やって、それからこちらに手を振った。
「またね」
扉が閉まる。
◇
「――下から来る水」
応接室を片付けに行く。茶碗が一つ、冷めたまま残っていた。




