↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
140/158

8月18日『師匠がさ、』

挿絵(By みてみん)

 火曜の朝。今日は湿気が重い。


 嵐の翌朝の図書館は、石と紙が水を吸い込んだ匂いで満ちていた。窓の結露を拭いていたら、二階の窓硝子に蛇行するひびを一本みつけた。彼女に報告すると、硝子工ギルドに連絡を入れてくれた。三階の蔵書も確認しなければならない。


 扉が静かに開いた。


 深緑の鱗をした修復師が鞄を肩に入ってきた。いつもの時間。いつもの足音。


「……湿ってるな」


 三階の棚の状態を伝えると、鞄を揺らさず二段飛ばしで上がっていった。火曜日のザルツさん。


           ◇


 こん、と金属が床石を叩く音。杖をついた女の人。声が低い。まっすぐ応接室へ案内される。


「地誌を見たいの。古いほうをね」


 彼女が棚から三冊抜いて届け、応接室の扉がゆっくりと閉まった。


 入れ違いに一階に響く声。


「ナディです!」


 道具箱を肩に提げた硝子職人が、入口で手を振っていた。金色の瞳が笑っている。


 彼女の声がカウンターの奥から聞こえた。


「見回りをお願いしますね」


           ◇


 三階。


 紙の匂いが濃い。ザルツさんが棚の端で、湿気を吸った紙を一枚ずつ広げている。指先だけが動いて、手首から先は揺れない。不思議な手つきだった。


「紙って、水に弱いんですね」


「弱いわけじゃない。付き合い方を間違えるだけだ」


 短い言葉だった。それきり黙って手を動かしている。手伝おうとしたら、「このくらいでいい。広げすぎると繊維が伸びる」と言われた。


 でもその言い方は冷たくなくて、紙に触るときと同じ丁寧さだった。


           ◇


 二階。


 窓枠のそばに道具箱を広げたナディさんが、硝子のひびに指を沿わせていた。目を閉じている。鱗の並んだ冷たそうな手。ザルツさんの手に似ている、と思った。


「硝子のひび、読めるんですか?」


「読めるよー。師匠がさ、『ひびは硝子の……日記? 手紙?』あれ?――なんかもっとカッコよかったかしら。『ひびは硝子の履歴書だ』! いや『人生だ』? ダメだ、もう原型がない!」


 自分で笑っている。鼻の頭を掻きながら、「まあ要するに、ひびを見ればどんな力がかかったかわかるの」と続けた。


 三階の修復師さんも、紙の傷を読むと言っていた。似ている。けれどザルツさんは師匠の名前を出さなかった。ナディさんは「師匠がさ、」を何度も使う。


           ◇


 三階に戻ると、ザルツさんが窓のそばで立ち止まっている。三階の窓はまだ閉めたままで、空気がこもっていた。


「二階なら窓を開けて作業してますよ。風が通っていて、気持ちいいです」


 ザルツさんの鼻の穴が広がった。少しの間があって、本を数冊抱えて階段を降りた。


 二階の窓際。ナディさんの数メートル先に、ザルツさんが本を広げ始めた。


「……あ」


 金色の瞳が振り向いたが、ザルツさんは本に視線を落としたまま応えない。


 ナディさんが硝子に向き直り、指が一瞬だけ止まって、すぐに動き出した。


 お茶を淹れて持っていく。盆の上に二つ。何もおかしくない、と思った。


           ◇


 ナディさんが外した硝子を台に置いた。


「このひび、面白いでしょ? 打痕がないの。何かがぶつかったわけじゃない。始まりがここ――枠の近く。ゆるく蛇行してる」


「風で割れたんじゃないんですか?」


「風なら外からでしょ。これ、内側から押されてるのよ。嵐の間、窓を全部閉め切ってたから、中の空気が行き場をなくした。建物の呼吸を受け止めきれなかったんだ」


「呼吸?」


「うん。建物って、閉じると息をしてるの。人間と同じ」


 数メートル先で、ザルツさんが顔を上げないまま口を開いた。


「……紙もだな」


 ナディさんがちらりと見た。


「閉じた本の中で、紙は膨張する。湿度が変わって繊維が動く。本も息をしてる」


 ナディさんの金色の瞳が大きくなった。笑った。


「さらっと言ってるけど、ああいうのって師匠の言葉なのよ。自分の言葉みたいに出てくるの。ずるいよねえ」


 ナディさんがわたしに向かって言った。ザルツさんにも聞こえる声で。


「余計なことは言わなくていい」


 ナディさんが鼻の頭を掻いた。


「私なんかさ、師匠に怒られるの。『ナディ、お前はいい加減だな』って。変えてるつもりはないんだけどなぁ」


 ザルツさんの口の端が動いた。縦長の瞳孔が丸くなっている。


「……使い込んだ道具は、持ち主に似てくるもんだ」


 ナディさんの指が止まった。


「あはは。ねえ、それ、師匠さんの言葉?」


「いや。自分のだ」


「へえ」


 二人がそれぞれの作業に戻った。鱗の並んだ手が、片方は硝子を、片方は紙を扱っている。


           ◇


 一階に降りると、朝の杖の女の人がカウンターに立っていた。革の鞄に筒が一本増えている。


「――坑道が霧に包まれてね。紫じゃない。今までに見た事のない、白くて分厚い」


「嵐の影響でしょうか」


「おそらく。ただ、思い返せば、嵐の前からいくつか兆候はあった」


 声が低い。杖を持たないほうの手で、手袋の端を引いている。手袋の下に、紫の斑がのぞいていた。


「地誌に興味深い記述が見つかったのよ。古い坑道の地下水の記録」


 そこに、ナディさんが道具箱を肩に提げて二階から降りてきた。


「……地下水?」


 カウンターのそばまで来て、杖の女の人の声が耳に入ったらしい。


「ええ。坑道の霧が変わったのと、無関係とは思えない」


 ナディさんが首を傾けた。


「窓もそうだったの。ひびが内側から来ててさ。この建物の湿気、嵐だけのせいじゃないのかも」


 こん。杖が床を一度叩いた。考えている音だった。


「ありがとう。整理してから報告するわ」


 杖の女の人が玄関に向かい、ナディさんも道具箱を肩に提げて後に続いた。


 少し遅れてザルツさんが二階から降りてきた。


「三階の本、しばらくしたら裏返しておいてくれるか。表が乾いたら裏も風に当てるように」


「わかりました。広げすぎないように、ですよね」


 ザルツさんの鼻の穴がわずかに広がった。


「ああ。またな」


 頷いて玄関に向かう。道具箱を肩にかけ直しているナディさんの横を通り過ぎる。と、金色の瞳が一度だけザルツさんの背中を見やって、それからこちらに手を振った。


「またね」


 扉が閉まる。


           ◇


「――下から来る水」


 応接室を片付けに行く。茶碗が一つ、冷めたまま残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。