8月17日『滲む』
弾が紅獣を貫いた。
ゲル体が痙攣して壁面から剥がれ落ち、結晶の床に落ちて紫色の靄になった。新しい力、能力装弾。弾倉に残りを数える。四発。ホルスターに銃を戻す。
静かになった。第三層は結晶が音を吸うから、戦闘が終わって聞こえるのは自分の呼吸だけ。マスクの中で鼻が動く。鉄錆のような紅獣の臭いが遠ざかる。代わりに、嗅いだことのないものが残っていた。甘い腐敗とは違う、分厚くて、重い空気。
今朝、第三坑道に入ったときから水が腿まで上がっていた。第二層では腰まで浸かった。壁の結晶が湿気で曇っている。
嵐二日目。誰にも出撃を許していない日に、あたしだけがここにいる。あいつに知れたら、また「無茶をするな」と言うだろう。だが、無茶じゃない。確かめなければならないことがある。
倒した紅獣の残骸が崩れおちた、その奥に――開けた空間。
瘴気が渦を巻いて沈んでいく方向。深く、帯電で照らしても、閃光が壁に反射するだけで底が見えなかった。空白地帯への入口――間違いない、ここだ。
魔晶はあの先にいる。
フィルターの消耗音が鳴った。くそ。あと少しだったのに。撤退だ。
帰路、水たまりの水位がさらに上がっている。壁の亀裂のあちこちから水が噴き出す音がする。
坑口に出ると、嵐の雨が顔を打った。振り返る。坑口から白い蒸気が吹き出している。
紫の靄じゃない。分厚くて、白い――。
◇
坑道図の色が、もう現実と合っていない。
昼前。新しい侵食図を部下に見せた。「この色分けは?」と隊員が訊く。「救護兵が走りながら数えた距離です」。あの人の歩数が、今はわたしの部隊の地図になっている。
異常を探るため、やむなく第三部隊を坑道に入れた。第一層から壁が濡れている。足元に水。短剣の柄に触れた。
鉄の声が曇る。金属が湿気を吸い込んで、昨日と組成が変わっているようだ。いつもは澄んだ高い声がするのに、今日は――喉に水を含んだように鈍い。
『水たまり』への降り口で、先発の偵察隊員が二人、走って引き返してきた。片方のフィルターが水浸しになっている。
「白い霧です。壁も床も、何も見えなくて」
「どこから?」
「降り口を出た直後からです。十歩も歩けませんよ」
もう一人が咳き込みながら言う。
「フィルターが蒸気を吸うんです。吐くたびに重くなる」
前進を試みるが、一歩ごとに視界が削られる。白い靄が足元から這い上がり、仲間の輪郭が霞んでいく。声が近いのに、姿が遠い。第二層の音を吸う結晶の効果が、白い霧に乗って第一層にまで滲み出している。
耳が横に倒れた。身体が先に伏せる。フィルターごと部隊を沈めるわけにはいかない。
「……撤退です」
一語だった。わたしの声で、足元の水面がわずかに揺れる。
坑口に出たとき、雨が顔に当たった。マスクを外し、隊員の顔を一人ずつ見る。全員いる。誰も欠けていない。
手のひらを見た。金属の光沢が、いつもより鈍い。剣の声はまだ戻らない。けれど隣の隊員が肩で息をつく音は、はっきり聞こえていた。
◇
こん。
杖が天幕の床板を叩く。間隔が次第に短くなっていることには気づいている。指が焦っているんだ。
テーブルの上の地図。報告の紙片が次々と届く。ユーリが隣で読み上げる声を、指でなぞる文字が追う。
一番坑、白い霧。二番坑も同様だ。三番坑は水位上昇に加えて白い霧が充満。四番坑――現在封鎖中の旧坑口だが、隙間から白い蒸気が噴き出しているという報告もある。
四つ全部だ。
角の低い男が天幕に入ってきた。グラード。報告書を積む前にテーブルの端に手を置いた。何かを掴もうとして、やめる。本を探す仕草だったが、ここに本はない。
ウーツが続く。フードの奥の翡翠色の目が地図に落ちる。
「排水を試みましたが、汲むそばから湧いてきます。おそらく、地下から押し上げられていると考えます」
地図に指を走らせた。四つの坑口の位置関係をたどる。
「水脈が下でつながっている、ということだね」
こん。杖を一度だけ強く突いた。
「……全坑道を一時封鎖する」
グラードの声は低く、硬い。ウーツの指が指輪に触れ、回した。
「ザラ殿が奥に空間を確認したとの報告があります。この機を逃せば――」
「逃すんじゃない」
グラードの角がわずかに上がった。自責ではない、決断の角度。
「隊員を危険に晒すわけにはいかない。止めるんだ、水が引くまでは」
「……了解であります」
地図の上に手を置いたまま、指を動かせなかった。水が変えてしまった地形を、もう一度測り直さなければ。描き直した線を、また水が消すかもしれなかった。
「水が引いてから仕切り直しだね」
こん。
◇
嵐で図書館を閉めた日は、閉館作業だけが残る。
一人でカウンターを拭き、椅子を整え、棚の端を確認する。返却箱は空のまま。貸出記録帳の今日の欄には、一行も書かれていない。
蒸気管の中を水が流れる音が、いつもより近い。雨の音と、管の音と、自分の足音。三つだけで建物が満ちている。
渡り廊下の向こうから、小さな足音がした。
黒髪の見習いが本館に入ってくる。左右の色が違う目が、薄暗い館内を見回した。
「窓の鍵、全部閉めてきました」
「ありがとう」
チェザが窓の前で立ち止まった。右に少し頭を傾け、何かを聴いている仕草。
「……雨が」
「雨?」
「……いえ。なんだろう。なにかが、変わった気がして」
窓に歩み寄り、外を見る。雨は降り続けている。けれど風が少しだけ弱まっていた。鉄嶺の方角は暗く、丘陵の輪郭がかろうじて見える。
その稜線が、滲んでいた。
隣で、チェザが窓硝子に手を当てていた。掌を開いて、硝子越しに雨を感じるような仕草。
「何か感じますか」
「……ううん。でも――」
言いかけて、首を振った。
窓を閉めた。北東、鉄嶺の方角から、まだ何かが漂っている。昨日まで見えていた線が、今日は見えない。
チェザは窓から離れなかった。




