8月16日『地下の栞』
嵐の底で、ガルドが笑った。
「最高の夜だ」
雨が屋根を叩いている。雷が空を割るたび、通りの水溜まりが白く跳ねた。灯りは全て消え、風が鍛冶通りの看板を激しく揺らしている。盗みに入るなら、これ以上の天気はないだろう。
「四階の封印、覚えてるな」
「ガキの報告でしょう? 鍵穴も取っ手もないっていう」
ガルドが雨の中を歩きながら、指を立てた。
「あのあと、裏で魔道具に詳しいやつに訊いた。力の空間封印だとさ。扉ごと空間を縫い止める。俺たちの道具じゃ一生開かねえ――が、あの封印を百年維持してる何かがある。鍵じゃねえ、もっとでかくて厄介な仕掛け。そいつを見つける」
聖遺物がどうこうという話は、もう聞かない。ガルドが欲しいのは宝じゃなく、宝を守っている力のほうだった。
◇
図書館の裏手。ガルドが壁を見上げ、指で石の継ぎ目をなぞった。
「下見のあと、この建物の古い図面も手に入れた」
「どこからです? また、情報屋のウルリヒですか? アテになるんすかね、あいつの情報」
ガルドは俺の顔を見もしなかった。
「いいから聞け。四階の封印は百年前の後付けらしいが、地下は建物と同い歳だ。二百年以上。封印よりずっと古い」
壁に寄りかかったまま、続ける。
「もう一つ。元掃除夫から聞いた噂がある。司書が毎朝一番にやることは、地下の扉を確かめに行くことだという話だ。四階は滅多に開けねえが、地下は毎日だ。毎日、同じ時間に確認に降りる――そっちが本命だ」
「噂ね。信用できるんすかね?」
ガルドが壁から背を離した。
「いいから窓を破れ」
いいから。ガルドの口癖だった。十年前、路地裏で俺を拾ったときも同じだった。「いいから食え」。干し肉を投げてきた。それ以来、この男の後ろを歩いている。
道具を取り出す。濡れた手で窓枠の留め金に触れ、三十秒。音はしない。こればかりは俺のほうが上手い。
「お前は本当にそれだけは上等だな」
「それだけ、は余計すよ」
ガルドが鼻で笑った。
中に入る。カウンターが暗闇の中に浮かんでいる。雷が光るたびに一瞬だけ室内が白くなる。本棚。椅子。閲覧机。並んだ背表紙が雷光の中で歯のように見えた。
「本だらけっすね」
棚の端を指で弾いた。今夜に限っては番人はいない。
「油断するなよ。足音を殺せ」
◇
外周廊下を通って建物の反対側へ。ガルドが扉を探り当てた。その先に、下へ続く石段。
冷たい空気が這い上がってくる。古い紙と、湿った土の匂い。それと、かすかに――潮の匂い。なんだ、どこの匂いだ。嵐の音が、一段降りるごとに遠くなった。
地下書庫。低い天井に煤けた梁。ガルドが火打ち石を擦り、小さな炎を作った。蜘蛛の巣が灯りに白く光る。
「端から探せ。封印を支えてる仕掛けがどこかにある」
「ほんとにあるんすかね?」
文句があるなら帰れ、と背中が言っている。帰りたいが、帰れない。そういう関係だ。
棚に並んだ古い帳簿を横目に、奥へと進む。百年前の紙の匂いが指先についた。
と、書架の奥で音がした。規則的な間隔。誰かがまるで本でも読んでいるような、ページが捲れる音。
「風だろう」
ガルドが肩越しに言う。
「窓ありませんよ、ここ」
ガルドの足が止まらない。
「じゃあ鼠か何かだ。本を読む鼠がいるってんなら見てみたいもんだな」
◇
三列目を通り過ぎたはずだった。しかし、振り返ると、通路があった場所に影が落ちている。天井まで届く書架がそびえ、壁だったはずの左手には、暗い隙間が口を開けていた。
「ガルドさん。道、おかしくねえっすか?」
足を止めて振り返る。ガルドが灯りを掲げて通路を見た。
「記憶違いだろ」
「こんなに短い距離でっすか?」
ガルドは答えず、壁に手をついた。そして、はっとして手を離した。指先が濡れている。
「なんだ? 水か? 壁に……」
灯りに翳すと指先がわずかに光った。濡れている。書庫の壁が。
周囲を灯りで照らしてみる。三つ先の棚、帳簿のあいだに薄くて細長い鉄棒が差し込まれていた。背表紙と背表紙の隙間に、まるで栞のように。
「あれは……」
腰の道具入れに手を突っ込む。――ない。さっきまで入っていたはずの、鍵開け用のピックが消えている。なぜだ。あんなところに挟まって――。
手を伸ばすと、暗闇の奥で紙が一斉に騒ぎ出した。一冊ではない。大量の紙が擦れて、うねるような音。しかし、灯りを向けてみても、何かが起こった様子が無い。
本は微動だにしていない。なのに、灯りを逸らした瞬間、また鳴りはじめる。確かに聞こえる。
◇
ガルドが最奥の本棚を肩で押した。びくともしない。
「開かねえ。仕掛けなんてねえぞ、こいつは」
灯りが揺れた。――いや、違う。弱まったわけじゃない。炎が傾いていた。棚のほうへ。吸い込まれるように。
ガルドが灯りを胸元に引き寄せた瞬間、音が消えた。
「わっ。ガルドさん!」
思わず棚に手を掛けると、木の表面が水気を帯びていた。
返事がない。ページ音も、紙の擦れも、嵐の遠い振動も。自分の呼吸さえ聞こえない。完全な無音。
その静寂の奥から、声が聞こえてきた。
「……五。……四。……三」
灯りが消えた。
◇
誰かに腕を掴まれていた。
「出るぞっ」
ガルドだ。引きずられるように暗闇を駆けた。あちこちぶつけながら書架の森を抜け、薄暗い石段を上がる。だが、石段がどこまでも終わらない。
背後に音が――足音だ。二人と同じリズム。三人目の足音が、すぐ後ろに迫ってくる。外の嵐の音が次第に近付く。
先に地上へ出たのはガルドだった。俺は腕を引っ張られながら、最後の段を上がる直前に振り返った。地下書庫の闇に、扉の輪郭が浮かんで見えた。そして――扉が閉まる音だけが響いた。
◇
外に出ると、嵐が殴りつけてきた。雨が冷たい。地下にいるあいだに体が冷えきっていたのだと、風に叩かれて初めてわかった。
しばらく歩いて、ガルドが足を止めた。
「仕掛けなんてもんじゃねえ。あの図書館を丸ごと守ってる何かがいる。……俺達がどうこうできる代物じゃねえ」
「道具一つ、落としたんすよ」
あの棚。本のように、いつの間にか差し込まれていた俺の道具。
「盗られちまったか。まあ、そのぐらいで済んで、運がよかったのかもな」
ガルドが首の後ろを掻いた。
「ガキには黙っとけよ。俺の沽券に関わるからな」
それだけ言って嵐の中を歩いていった。俺はその背中を追った。背中は濡れて、いつもより小さく見えた。




