8月15日『同じ雨』
小雨が、朝から降っている。
鎮魂祭の土曜日。石畳が一段暗い色に沈んで、どの工房も炉を落としていた。槌の音がない代わりに、供え火の甘い煙が雨を縫うように漂っている。
弔鐘が鳴った。低く、ゆっくりと。通りの向こうから、黒い列がやって来る。
以前にも同じ通りで葬列を見た。あの日は窓の内側から、硝子一枚を隔てて一人で見ていたが、今日は外に立っている。隔てるものがない。隣には、小さな傘がある。
棺の上に花はなかった。雨に透けかけた紙が一枚。あの行方不明だった討伐隊員。赤壁の向こうからようやく戻ってきた人のために、誰かが書いた一枚。ずっと空だった棺が、今日ようやく空でなくなった。
列が近づいてくると、隣の傘がわずかに傾いた。横顔――黒い髪が雨で頬に張りつき、左目の青だけが滲むように浮いて見える。
雨の日はいつもこういう顔をしていた。もっとも、あの子の隣では雨に濡れたことがない。
◇
――九つの頃。それはキャラバンが街に入った日の午後だった。
雨だ。けれど頭上には落ちてこない。見上げると、雨粒が二人の上だけ避けて降りていく。空に見えない天蓋がかかっているように、乾いた円がぽっかりと広がっている。
その天蓋の下で寝そべって、本を読んでいた。キャラバンの荷に紛れていた古い地誌。行ったことのない街の地図が描いてある。
傍らではあの子が道端の水溜まりを持ち上げている。荷車が三台は収まる広さの水が、一枚の大きな絨毯みたいにゆっくり空中に浮いて、午後の光を透かしている。あの子がくるりと指を回すと、水の端が渦を巻いて小さな竜巻のように立ち上がり、ぱしゃんと元の場所に落ちた。
あの子がこちらを覗き込んだ。
「ねえ、商隊長がまた言ってたよ。『ガキは荷の数に入らん』ってさ」
「いつもそれ言う、あの人」
「数に入らないなら、いなくなっても気づかないかな?」
「気づくよ。ご飯の量が減るもん」
あの子が笑って、天蓋の端をつついた。雨粒が一列に並んで走り、水の布に合流して虹色の波紋が広がる。
「ねえ。大人になったらどうしようか?」
「どうしようって」
「キャラバン、いつか出るでしょ。あたしたち」
本から目を離さずに答えた。
「考えたことない」
「わたしもない。でもさ、こういう日がずっと続けばいいのにって」
「こういう日って」
「何にもない日」
水の天蓋がゆらゆら揺れている。あの子が見上げて、ぐるりと首を回した。
「ここ、あたしたちの部屋みたいだね」
「屋根、水だけどね」
「水でもいいじゃん。降ってる間はずっとあるし、暗くならないし」
本から目を上げた。水を透かした光が地面に模様を落としていた。
「けど、何にもない日は……たぶん続かないんだよ」
「なんで」
「本に書いてあった。旅はいつか終わるんだって」
「……じゃあ終わったら、また始めればいいじゃん」
ページを捲る指先に、水の光が揺れていた。
◇
棺が目の前を通る。杉板が雨に濡れて匂いが強い。紙が一枚、揺れている。列の後ろに葬儀師の姿があった。チェザが、小さな指で傘の柄を握り直した。
――十二の頃。その日は、海の近い街で目が覚めた。
あの子と並んで、宿の前に座っていた。いつもの朝と同じはずだったけれど、いつも落ち着きのないあの子がじっとしている。膝を抱えた足先が揺れていない。
昨日の夜だ。誰かがキャラバンを訪ねてきた。それだけ覚えている。
「……ねむい?」
「ううん」
あの子が首を右に傾ける。遠い場所の音を聞くときの癖だ。
「……なんか、遠くの音がする」
「雨の音でしょ」
「ううん。……もっと遠い」
雨が止んだ。雲の端が千切れて、隙間から朝の光が落ちる。濡れた屋根が白く光って、目を細めた。水溜まりに空が映っている。
「世界ってさ。……きれいだよね」
あの子が立ち上がって、そう言った。あの子と同じ方を見た。同じ景色のはずだった。けれど、何がきれいなのか。空か、水溜まりに映った空か、それとも見えていない何か。それは分からなかった。
◇
葬列の背中が遠ざかっていく。水溜まりに靴の跡が薄く続き、列が角の向こうで消えた。
あの子の後ろ姿を見送ったのも――水の音がする場所だった。
どこだったのか、もう正確には覚えていない。覚えているのは音だけだ。天井が見えないほど高く、壁を水が薄く流れていく。足音が水に溶けて返ってこない。床も壁も天井も、あの場所のすべてが水でできているかのようだった。
手を繋いで歩いた。
奥にそれがあった。小さな体を横たえるための大きさ。蓋が透き通っていて、中には水が満ちていた。何百年も前から、その場所に溜まり続けていたような水だった。
あの子の手が、強く握り返してきた。一瞬だけ。そして、すぐに力が抜けて、指がほどけていく。
雨の中を手を引いて一緒に走った。その同じ背中が、今は、一人で歩いていく。
何か言ったはずだ。大事な言葉だったはずなのに、思い出そうとするたびに水の音が被さって、言葉の輪郭だけが攫われていく。
鐘の音が聞こえる。彼女は一度も振り返らなかった。
器の縁に手をかけて、中に身を沈めていく。黒髪が水面に触れ、ゆっくり広がり、音を立てて蓋が閉じた。手のひらに残った温度が、水の冷たさに消えていく。その速さを覚えている。
◇
葬列は消えていた。通りに誰もいない。雨と、水溜まりと、微かな香煙の残り香。
隣の傘が動いた。
「……戻ろう」
いつもの声に聞こえなかった。見習いの丁寧さが消えた、少し低い声。
小さな傘が、こちら側に寄った。肩に、布越しの温度が触れる。雨の天蓋の下で繋いだ手と、同じ温かさが、まだここにある。




