8月14日『旅立ちの前に』
金曜の午後。
一階カウンターで、銀青の彼女が誰かと話している。低い女の人の声が、断片的に二階まで届いていた。
「――明日。ようやく、棺に入れることができて――」
足音が遠ざかり、扉がぱたりと閉まる音。鍛冶場の槌音もいつもより早く止んでいる。明日は鎮魂祭だ。さっきの女の人の用件も、そのためだったのだろうか。
この静けさが好きだ。紙の匂いが濃くなって、インクと、陽に温められた木の書架の匂いが混じる。二階蔵書棚を整理するわたしの横を、夏の光がゆっくり移動していく。
窓際の席で、ガウレンさんが声を上げた。
「おい嬢ちゃん、この棚番号が前と変わっとるぞ。第三架の鋳造記録、先月まで二段目だったろう?」
「はい、先週入れ替えました。新しい目録が入って」
「危うく隣の冊子を開くとこだったぞ」
厚い首を傾けて鋳造記録を広げているけれど、声だけは工房の炉前に立つときの大きさだった。読み終えたページの端を折ろうとしたので、栞を持っていった。
「どうぞ」
「おお、すまない」
言いながら、もう次のページを捲っている。毎週同じ手順、毎週同じ。
◇
扉が開いて、油の匂いがした。鍛冶師の煤とは違う、香辛料の混じった炒め物の油。布に何かを包んで抱えた女の子が立っていて、前掛けの紐の跡が肩に残っていた。指に小さな火傷がある。わたしと同じくらいか、もう少しだけ上。
「あの、フライパンの修理のことが載っている本はあります?」
マルタと名乗ったその子と一緒に書架を調べ始めた。鍛冶技法の本を何冊か開いたけれど、亀裂の入り方が違う。近い修繕方法も見当たらない。
手に取った図版入りの目録と見比べながら訊いた。
「この街で作ってる品物です?」
「鍛冶屋さんに持ち込んでも、作りが分からないって言われちゃって」
すると、ガウレンさんが閲覧席から腰を上げ、マルタさんのフライパンを覗き込んだ。断りもなく太い手を伸ばしてフライパンをひっくり返すと、小さな刻印をみつけた。底を指でなぞる。曲がった薬指で打刻の凹凸を辿りながら、顔つきが変わった。
「こいつは誰にもらったものだ?」
「あの。師匠にいただきました。……料理の師匠に。お店を移転する前に、他所の土地で買った物らしいんです」
「嬢ちゃん、この鉄を打った奴を、儂は知っとる」
マルタさんが目を丸くした。
◇
「儂の弟子でな。もう何十年も前の話だが、腕の良い奴だったよ」
ガウレンさんは鋳造記録の冊子を脇にどけて、フライパンを机の真ん中に置いた。
「三年目には、もう鍋底を一枚で叩き出しやがった。普通は五年かかる代物をよ。炎の扱いもうまいもんで、温度を背中で測れる奴だった。汗の乾き方が変わる瞬間が分かるんだと」
マルタさんが向かいの席に座った。
「ただ、儂とは考えが合わんところがあった。ある日、常連の婆さんに鍋を返された。重くて持てんとな。そしたら次の朝、あいつが勝手に同じ鍋を薄く打ち直して届けておってな。儂には一言もなしでだ」
ガウレンさんが鼻を鳴らした。
「あいつは頭を下げてこう言った。『あの鍋が棚の奥に入るのが見えたんだ』と」
「どうぞ、お二人とも」
お茶を淹れた。二人の間に湯気を置きたかった。ガウレンさんは湯呑みを掴んでひと口で半分を飲み干し、マルタさんは両手で包んで、ふうふうと息を吹きかけている。
「儂は厚く打てと教えた。鉄に任せろといつも言っておった。が、あいつは底の打ち方を変えて火の回りを保った」
マルタさんが自分のフライパンの底を見た。
「だからこの底、こんなに薄いのに焦げつかないんだ」
「おう。儂が教えとらん打ち方だ。――いや、儂に出来んわけじゃないぞ。やらんだけよ」
マルタさんの口元が少しだけほころんだ。
「……まあとにかくだ。あいつは鍋を一枚置いていったのよ。儂の教えた通りの、厚くて重い鍋だ。それだけ置いて、街を発った」
ガウレンさんが一度、間を置いた。それからフライパンの底を、もう一度なぞった。
「銘は変えなかったようだ」
短い一言だった。鍋の厚みも形も変えた。けれど銘だけは教わった通りのまま刻み続けていた。
わたしも、底の銘にそっと触れた。何十年も前の鉄と、何十年も前の腕が残した凹凸が指先に伝わる。
――わたしにも、残っているものがある。変えなかったもの。変えないことを選んだもの。自分で選び、それでも残ったものが。
◇
「鍛接で直す。この鉄に合うだろう」
「直せるんですか」
「もちろんだ。儂の弟子が打った鉄だ。癖がよう出とるわ」
修繕記録の用紙をカウンターから持っていった。所蔵品用の書式だけれど、必要な項目はそう変わらない。
「そうさな。明後日、儂の工房に持ってこい。明日は墓参りがあってな」
「どなたのです?」
ガウレンさんは答える代わりに、フライパンの底をもう一度だけ叩いた。鉄が短く、いい音で鳴った。
◇
閉館。
窓際の机を拭きに行く。誰もいない机の上に、空の湯呑みが二つ。湯呑みを盆に載せてカウンターに戻る。洗い物をしながら、さっきの鉄の音を思い出していた。
古い記憶の底で、弔鐘が鳴っている。




