8月13日『得した気分』
木曜の午前。来館者はまばら。蒸気管の振動と、紙の匂い。
指先がカウンターの木に触れた。熱い。朝からずっと陽を吸い込んでいる。
「お昼すぎには戻ります」と、彼女が鞄を持って出ていった。
「何かあったら応接室の棚の右端に予備の印鑑がありますので」
そう言い残し、それから「一人で大丈夫ですか」と聞いた。
大丈夫です、と答えた。カウンター番くらいはできる。……たぶん。
◇
扉が開いた。
熱風。背の低い一団が五人、なだれ込んできた。全身に短い体毛が生えていて、背中に薄い翅がある。先頭の少年がカウンターまで走ってきた。大きな複眼を更に大きくしながら、笑った。
「いやぁ、助かった! 涼しい! すみません、お嬢さん、午後まで置いてもらえませんか。クリミナから来た行商でして――」
返事の前に、もう散っている。わたしの腰ほどしかない四本腕の子が蒸気管に取りつき、縞模様の一人と暗い体毛の一人が外周へ向かう。黒色のいちばん大きいのだけが、待合い席にどしりと腰を掛けた。
五人の翅が、ジジ、と震えた。
「図書館ですので……静かにしていただけますか?」
「もちろんです! 自分はリットです。ご迷惑はおかけしませんので」
声がいくつも重なった。
「ねえ、ねえ。リット! これ何?」
「テト、ここの椅子かわいくない? あたし達の街にはこういうのないよね」
「ねえ、ねえ。ここ熱い。これ何?」
「この椅子、楢材だね。悪くないよ。こっちだといくらぐらいするもんかねえ」
リットが苦笑いした。
「……善処します」
◇
蒸気管からピピを引き離した。軽い体を抱え上げて、そのまま児童書架の一角まで運んだ。席に座らせると、四本の腕を振り回し始めた。
「ねえ、おろして!」
「ここの本は絵がたくさんありますよ」
「赤いの、なにこれ?」
絵本を開く。鍛冶場の絵。
「金属を溶かしている絵です」
「とける?」
「そうです。溶けます」
「触れる?」
「本物は危ないですよ?」
「危ない?」
リットが隣の椅子に座って補足した。
「こいつ、第一周期なんですよ。まだ三か月で――火を見た事ないんです」
ピピが絵に四本の手を当てた。
「温かいの、これ?」
「そうです。熱いんです」
窓から差す陽射しを見ている。
「赤い、同じ?」
「あれはお日さまです。温かいので、似てますね」
今度は壁掛けのランプに目をやる。
「赤い、同じ?」
「あれは蝋燭です。まあ、似たようなものです」
今度はカウンターの上。
「赤い、同じ?」
「それはリンゴです。うーん、似ては――」
リットがにこにこ聞いていた。
「いやあ、ピピが質問に付き合ってもらえるの珍しいな。だいたいみんなすぐ諦めるんですよ」
褒められている気がしない。
◇
外周通路に出た。掲示板の前に二人が並んでいる。
「テト、この求人の張り紙さ、相場が全然違くない?」
テトが張り紙を指で差している。体は小さいが目つきが鋭い。
「そりゃ金属の街だからねえ。でもこの頼み事、時給換算じゃ全然割に合わないよ」
隣のミュリが一呼吸も置かずに喋っている。
「この掲示板ってタダで貼れるの? これほんとにタダ? なんか後から請求来たりしない?」
ミュリがこちらを向いた。
「……来ません。公共の掲示板なので」
テトが頭をひねった。
「ほんとに? 市場で壁を借りたら、ひと月で十アムはくだらないよ。それが全部タダだって?」
「やばくない? 太っ腹すぎじゃんね。あ、でもさでもさ、本を読むのもタダなんでしょ? 本ってけっこう高いじゃん」
「そうだよ。あたしが見たあの棚、革装丁の本だけで相当するよ。それ読み放題ってのは尋常じゃないね」
二人の声が加速している。ミュリが疑問を広げ、テトが値段をつける。
「ちょっとちょっと! あのお湯の出るやつ、あれもタダなの? 勝手に使っても大丈夫なの?」
「そうそう。あたしもびっくりしたよ、燃料代だけでも馬鹿にならない――」
児童書架の方から、ピピの声が響いた。「ねー! これ何? 何?」
行かなきゃ。
◇
児童書架。ピピが絵本を床に広げ、窓と絵を交互に見ていた。
「この絵、おなじ?」
絵本の中に大きな雲が描かれている。窓の向こうの煙突から蒸気が立ちのぼっている。
「うーん。似てるけど、少し違います。水がお湯になって、気体になって――」
「気体ってなに?」
リットが帳簿に目を落としたまま口を挟んだ。
「氷が溶けて水になるだろう? それで、水がもっと温まると目に見えなくなるんだ。その目に見えなくなったやつがあの煙で、あの煙が集まると雲で――」
「見えなくなったのに、見えるの?」
リットがペンを止めた。
「あー。……それは、いい質問だな」
◇
右手の児童書架からピピの質問が飛ぶ。リットが半分答え、残りを「お嬢さんに聞いてごらん」と中継してくる。左手の外周からはテトと査定とミュリ驚きの連鎖が聞こえる。全ての声が折り重なってこだまする。
「この壁、温かいね。なんで?」
「蒸気管には触らっちゃダメだ。やけどするからね」
「やけどってなに?」
「ねえねえ、あそこの席で本読んでるあの人たち。お代はどうなってんの? 何時間いてもタダなの? 朝から晩まで座ってていいの?」
「商売として成り立ってないんだよ。あたしなら席代だけでもふんだくってやれるのに――」
待合い席の大きくて真っ黒な体。ノルが一人静かに水を飲んでいる。
隣に座ると、水差しとグラスを無言で差し出した。冷たくて、おいしかった。
「嬢ちゃん。この図書館のこと、随分よう知っとるようだのう」
「……見習いですから」
「それだけかの」
ジジジジ、ジジジジ。翅の音が、あちこちから聞こえる。午前の図書館が、こんなに騒がしかったことはない。
「儂らの生は短い。だからかの、知らないものを見ると、得した気分になるんじゃよ」
「……得、ですか」
「今日も随分得をしたのう」そう言ってノルが荷物を持って立ち上がる。
「さて。時間が来たようだ。お嬢さん、騒がせてしまったようで、申し訳なかったのう」
玄関前で、リットが他の三人を集めていた。
「いえ、そのようなことは――」
「儂らのような騒がしい者がいたことを、時々でよいから思い出しておくれよの」
黒くて大きな眼を少しだけゆがめて、笑った。
◇
カウンターの木がまだ熱い。絵本を棚に戻した。入って右の二列目、下から三段目。
「ただいま戻りました。何かありましたか?」
彼女が鞄を抱えて入ってきた。カウンターに目を止める。水差しとグラスの跡が残っている。
「静かな午前でしたよ」
大変でした、とは言わなかった。大変だったかどうか、まだよくわからない。
午後の光がカウンターを渡っていく。耳の奥に、まだ翅の音が残っている気がした。




