8月12日『声の器』
扉が開いて、足音が止まった。
入ってきた人が、そのまま動かない。初めての来館者が扉の前で立ち止まるのは珍しくないが、書架に圧倒されたのでも、槌の音と紙の匂いの落差に面食らったのでもなかった。
長い耳が、左右別々の方向を向いている。片方が閲覧席のページを繰る音を追い、もう片方が壁越しの蒸気管の振動を拾っている。灰褐色の短い毛が頬と耳の根元を覆い、旅装の鞄を両手で抱えた小柄な若い女性だった。
「すごい。音が重なる街ですね」
カウンターに歩み寄りながら、感心したように首を傾けた。
「鉄を打つ音と、紙の匂いが同じ建物にあるなんて。へえ」
紹介状を差し出す手は丁寧だが、肘がわずかに浮いていた。旅慣れていない人の所作だった。
◇
封書の差出元は、『探求の里』。口承伝承の調査に関する照合依頼、とある。
「母が、六十年前にこの街の周辺を調査していたんです。私が生まれる少し前のことなんですけど」
彼女はトーヴァと名乗った。赤い瞳が揺れた。
「丘の向こうの集落に残っているという、古い精霊信仰の歌を集めていたんです。記録帳にも精密な記録があるんですが――」
鞄から小さな金属の筒を取り出した。掌に収まる長さ。封がされている。
「これ、録音管です。声を封じて持ち帰るための道具で、これが一本、空のまま母の荷物の中に残されていて」
声を集めに行って、何も集めずに帰った。
「母に訊いたんですけど、笑うだけで答えないんです。忘れるような人じゃないのに」
長い耳がわずかに傾いた。すぐに戻る。
「だから、自分で調べに来ました。当時の関連資料が、こちらにないかと思って。……案内をお願いできます?」
カウンターの奥から出てくる足音に、トーヴァが耳を向けた。
「あ、お弟子さん?」
「見習いです」とチェザが答えた。
「足音が静かですね。あなたと一緒」
カウンターを回る間に、もうそこまで聞き分けていたらしい。
◇
三階への階段を上がるにつれ、槌音が遠ざかり、古い紙と革の匂いが濃くなる。
「上に行くほど静かなんですね」
トーヴァの耳が天井に向いた。
「この高さだと……三階の床から天井まで、二メートル半くらいですか」
反響で測ったらしい。歴史資料保管庫は窓が小さく、書架で半ば塞がれていた。照明の光が棚の間に細く差す。
「この列の奥に周辺地域の祭事記録がまとまっているはずです」
チェザが梯子に手をかけ上段を探る。下段の束を確認していくと、探求の里で用いられる古代文字の書式で綴じられた一冊が見つかった。表紙に記された名前。
「これ、母ですよ」
トーヴァが帳面を受け取り、顔を近づけて開いた。文字のすぐ上まで目を寄せる。チェザがそっと照明の角度をずらし、ページに光を落とす。
「母の字。今よりずっと、勢いがある」
前半には十数曲の歌が音韻記号と旋律線つきで記録されていた。歌詞、歌い手の名前、集落の名、歌われる季節までも。トーヴァの指が旋律線をなぞる。
「この歌、知ってます。炊事場で母がよく歌ってました」
小さく口ずさんだ。三階の静寂に、短い旋律が響いた。古い紙の匂いの中に、声が一筋通る。
「これも知ってる。冬至の夜に暖炉の前でよく。……母は、ここで集めた歌を持って帰っていたんですね」
耳がまっすぐに立っている。ページを繰る手が軽い。
「あれ。一番よく歌ってくれた歌がないな。寝る前にいつも歌ってくれた唄なんですけど」
首を傾けたまま、さらにページを繰る。そして手が止まった。
白紙。
以降のページは、すべて白紙だった。長い耳がゆっくり倒れた。
「母が途中でやめるなんて」
◇
チェザが上段から降りてきた手に、別の資料があった。祭事慣習をまとめた行政文書。
「棚を見ていたら、近い年代のものがありまして」
背表紙の年代と記録帳の日付を照合する。見習いとして自然な判断だった。
行政文書には、霊月信仰の儀礼や風習が役人の硬い文体で記されていた。『精霊謡』の項。
――精霊謡について。歌い手は守護霊に応じ、旋律を変える。同じ歌は二度と生まれぬ。器に封じれば守護霊は去り、歌が死ぬ。これは口伝の歌い手の間で古くから守られている、掟である――。
トーヴァの耳が、ぴんと立った。
「器に封じる――これだ。母らしいですよ。歴史を優先する人だから」
快活に頷いた。それから間を置く。
「……でも」
記録帳に目を戻す。
「母は他の歌は書いてますよね。器に――録音管に録らなくても、旋律記号で写せばよかったはず。他の歌と同じように。なぜそうしなかったんだろう」
精霊謡には、もう少しだけ続きがあった。
――精霊謡は聴く者によって変わる。歌う者と聴く者、この二つが揃い、初めてそこに力が宿る。
「他の誰に歌っても同じ歌にはならない、か。それなら残す意味もない。母もたぶん、同じように考えたんですね」
トーヴァが空の録音管を手のひらに載せた。金属の冷たさが、薄暗い三階の空気に馴染んでいる。
「じゃあ……母さんは覚えてるんだ。頭の中にだけ」
彼女の種族は忘れることが無い。管にも紙にも残せなかった歌が、母の記憶の中にだけ残っている。
「少し休みますか」
トーヴァが顔を上げる。白紙の記録帳を閉じるとき、表紙を撫でるように触れた。
三人で階段を降りる。二階を過ぎたあたりで、トーヴァが何か口ずさんでいることに気づいた。三階で聞いた旋律とは違う歌。
「それは、先ほどの記録にあった歌ですか」
トーヴァの耳がぴくりと動いた。
「あ。いえ。これ、母が寝る前に歌ってくれた唄なんです。子供の頃よく……。もしかしたら、ここの記録にあるかもしれないと思っていたんですけど――」
そのまま口を閉じた。
◇
「わかったような、わからないような」
一階の閲覧席。チェザが淹れた茶を受け取りながら呟いた。声に暗さはなかった。
「何処にも載らない歌。母がそれを聴いたときに何を思ったかも、もう残ってないんですよね」
カウンターで紹介状を返す際に、街の周りの農村に詳しい人を当たれるかもしれないと伝えた。
「ありがとうございます」
トーヴァが頭を下げ、耳が揺れた。チェザが扉まで見送る。
扉に手をかけたところで、トーヴァが振り返った。
「帰ったら母に訊いてみます。また、笑われるでしょうけど」
長い耳がまっすぐに立っていた。空の録音管と記憶の中の旋律を両手に抱えて。
◇
閉館。三階の棚を整理しに上がると、分類票のない資料がまだ残っていた。
前半には正確で丁寧な旋律線。後半はその先の六十年を写すかのような白紙。
あの階段の途中で口ずさんでいた、記録にない歌。どこにも残らなかった歌。




