8月11日『ようやくここまで』
雨の匂いが朝から続いている。窓を閉めたまま迎える祝日。カウンターを拭いていたところに、泥の匂いが先に入ってきた。
軍靴のまま立っている。虹色の髪が雨で首に張りつき、革のホルスターから水滴が石畳に落ちる。
「靴」
「……わかってるよ」
片足ずつ蹴るように脱いだ。靴下まで水が沁みている。
「終わった。もう残ってない。……今のところはだけど」
続いて灰色の短毛が見えた。フェイだ。入口で既に靴を脱ぎ終わっている。三角の耳がまっすぐ立ったまま、フードから水滴がこぼれる。
「隊長、報告します。わたしの部隊が最後の――」
「中にちゃんと入ってからにしな」
「……はい」
耳がへたり、すぐ戻る。短剣の柄に手を添えて入ってきた。
三人目は少し遅れて現れた。灰色の外套を丁寧に脱ぐ、ウーツさんの姿。手に泥だらけの軍靴を二足。ザラが放り出した分と自分の分を揃えて並べる。そして一礼してから入館した。
最後にダリアさんとユーリ。ダリアさんは地図筒を油布で包んで抱え、ユーリが紙袋を持ってその脇を支えている。紙袋だけが不自然に乾いていた。ユーリが上着の内側で守っていたのだろう。よく見ると、パン屋の包みだった。
「坑道の古い図面を見せてほしい。照合をしたくてね」
ダリアさんの声は、いつもと同じ温度だった。
◇
カウンター前ではザラ、フェイ、ウーツさんの三人が並んでいる。
フェイが短剣の柄を撫でながら話している。
「殻、割れないんですよ。当たっても殻はそのまま――なのに中身だけ崩れて、消えた。あんなの初めて見ました」
「ああ。能力装弾は確かに有効だ。外殻を維持したまま核を撃ち抜ける」
ザラの口元が緩んで、組んだ腕を解いた。
「この弾がなけりゃ、もう半年はかかったね。魔道具士さまさまだ」
ウーツさんが首を傾げる。
「日数に換算すると、百四十日ほど。……根拠を伺いたい」
「……軽口だよ」
「……」
フェイが短剣の柄から手を離した。銀がかった指先が、カウンターの端を叩く。
「隊長。わたしたちのことも褒めてくださいよ」
「わかったわかった。いい仕事だった」
ウーツさんが背嚢から小さな缶を取り出し、口元に運ぶ。その様子を見ていたフェイが「あ」と声を上げ、ザラが目を逸らした。
「……あんた、まだあの茶、入れてるのかい」
「手順通りだ」
手順は正確なのに、なぜか味だけが壊滅的なこの人の茶。かつてのパーティで何度飲んだだろう。飲むたびにザラが黙り込み、自分だけが最後まで飲み干した。フェイが口元を押さえている。坑道でも飲まされたに違いない。
「お茶なら、わたしが入れましょうか」
チェザがカウンターの奥から声をかけた。ウーツさんが缶を見下ろし、ゆっくり蓋を閉じた。
「……では、お願いする」
「あんた、素直に引くときもあるんだね」とザラが笑った。
「淹れ方には自信がある。が、口に合わないのは致し方ない」
◇
三階から降りてきたダリアさんたちが、執務室の長テーブルに古い図面と地図を広げた。
その端にチェザが茶を並べる。全員分。狭い部屋に六人と一人。窓硝子を雨が流れている。
「ここで食べていいですか?」
ユーリがパンの紙袋を開いた。
パンを片手に、ダリアさんがもう片方の手で古い等高線をなぞる。
「百二十年前の傾斜角と、今朝までの測量データがほぼ一致する。地形は変わっていない」
ユーリが、横で数値を帳面に写しながら補足する。
「六十年前の地質調査だと、このあたりは石灰岩です」
ザラが地図を覗き込んだ。
「ならここだね。東側の斜面を掘れば入れる」
フェイがパンをかじりながら言った。
「ここ、昨日わたしの隊が立ってた場所ですよね?」
「ああ。その下がちょうど赤壁の直上だ。そこを確認しに行く」
ウーツさんが三十年前の点検記録を読んでいた。
「赤壁の手前まで点検が入っているな。近くに封鎖された坑道がいくつかあるようだ」
ダリアさんが顎を上げた。「赤壁の先にも、通路が残っている可能性がある」
ユーリが地図の端に落ちたパンくずを払ってから言った。
「紅獣はいつ再生するか分かりません。猶予は数日でしょう」
窓の外を雨が流れている。ザラが首に張りついた髪を片手で掻き上げた。朝からそのままだったことに、今さら気づいたのだろう。
「明日、あたしが単独で潜る。足がかりを探してみる」
ウーツさんが右手を上げた。
「ザラ殿。今は単独行は避けた方が良い。私も同行する」
「わたしも――」と言いかけたフェイを、ザラが制した。
「あんたは隊の休養が先だ」
フェイの耳がへたった。ザラが目を合わせる。
「その耳やめな。あんたにはあんたの責任があるだろ?」
耳が戻る。素直なものだ。
◇
雨音が少し遠くなっていた。
ダリアさんが地図の余白にペンを取り、小さく丁寧な字で書き加える。
「八月十一日 『ようやくここまで』」
ユーリの目が少し丸くなった。ダリアさんが地図に感傷的なことを書くのは珍しいのだろう。
「これも記録さ」
「いい字だ」とザラが言った。
「……うるさいよ。真っ白な紙に新しい線を引ける日が、地図師にとっては一番いい日なのさ」
ユーリが帳面にペンを走らせかけた。ダリアさんが振り返る。
「なに書こうとした」
「……記録です」
「笑った顔を記録するんじゃないよ」
声に怒りはなかった。ユーリが小さく頭を下げる。ダリアさんの口元が、まだ緩んでいた。
◇
全員が帰った後の図書館は、静かだった。
テーブルの上の古い図面を三枚、紐で結び直す。隅に落ちたパンくずだけが人がいた名残りだ。
閉館。
雨脚は弱まっていたが、石畳の上の泥は洗われ始めていた。




