8月10日『八月の近影』
月曜の朝。工房街の音が、今日はまばらだった。
窓の外に目を遣ると、北の街道へ向かう影が数組。装備の金属が朝日を弾いている。その中に虹色の毛並みが一瞬だけ――いた気がした。
チェザが掲示板の張り替えをしながら、窓のほうへ目をやっている。
「今日はいつもより静かですね」
「工房の何軒かが休みだからでしょう」
チェザはそれ以上聞かなかった。踏み台の上に戻り、画鋲を押し込む音だけが続く。
◇
午前。児童書架コーナー。
「お姉ちゃん、見ててね」
トーマが紙に向かっている。チェザが隣の椅子に座って、両手を膝の上に揃えている。
四画目。線は曲がったが、前より迷いがない。ペン先が紙を離れた瞬間、「見て」と差し出された。
「……上手だね」
チェザの声が少しだけ低かった。すぐに元の調子に戻り、紙をトーマに返した。
同じテーブルの端で、大きな十六歳の背中が丸まっている。ベルトだ。今度は工房の先輩宛ての手紙を書いているらしい。字は相変わらず太いが、行がまっすぐ揃っていた。チェザが静かにインクを足す。
手を止めたトーマがベルトの手紙を覗き込んだ。
「お兄ちゃん、練習?」
「手紙なんだ。工房の先輩に」
トーマがじっとベルトの字を見てから、自分の紙に戻った。文字が途中から急に大きくなる。
「なんかデカくなったぞ」
と、ベルトのペンが止まる。大きな文字の隣に書き足されていた図形に気づいた。水滴のような絵が三つ。
「ん? これなんだい?」
「おまじない。届きますようにって。ニコが言ってたんだ。大事なものの印って」
ベルトが自分の手紙を見た。少し迷ってから、自分の署名の横に同じように三つ書く。
チェザがインク壺の蓋を静かに閉めた。
◇
午後。カウンターに大きな影が立った。
オスカルさん。今週分の写真帖を返却しにきた。厚い指が表紙をもたつかせている。
「次はどのようなものを」
「今度は地図を。道を知りたくてね」
チェザが「ご案内します」と棚に向かう。踏み台に乗って上段から一冊を引いた。
「こちらを。街区ごとに色分けされていて見やすいですよ」
オスカルさんが受け取り、窓のほうを見た。目を細めている。
「明るいよな、昼ってのは」
と、入口が開いた。赤い指先。
「あら、オスカル。あんたが昼間に出歩いてるなんて、珍しいじゃない」
フロリンダさんだ。媒染の記録を返しに来たらしい。カウンターで赤い布の端切れを出した。鮮やかな赤。オスカルさんが布をちらりと見る。
「いい色だな。写真帖にも、こういう暖簾の店が写ってた。確か、赤と白と橙の縞模様で――」
「その暖簾、あたしが毎日行ってる定食屋だよ。南通りの千華亭でしょ。あたしが染め直したんだ」
「……南通りか」
オスカルさんが地図を開き、南通りの角を探し始める。写真で見た風景を、地図の上で追いかける。すると、フロリンダさんが地図をぐいっと覗き込んだ。
「この地図、色分けしてあるねえ。商業区と工房街――赤と黄のこの配色、面白いじゃないか」
オスカルさんを押し退ける。
「ごらんよ。赤と黄が隣り合ってるこの辺、見本帳と同じ並びなんだ。ちょっとだけ借りていいかい」
「俺は、飯屋を探してるんだが」
「千華亭は南通りの角だって言ったろう。二階建て。赤地の暖簾さ」
「一つ、いいか」
フロリンダさんがはっとして地図をオスカルさんに返す。
「ごめんよ、つい」
「いや、違うんだ。写真で見た暖簾。……見本帳に載せてもいいような色だった」
「……それは、褒めてくれてるのかい」
「思った通りに言ったまでだ」
フロリンダさんが鼻を鳴らした。
「そこで飯を食ったら、そのまま南通りへ歩いてみな。あたしの工房の看板も同じ赤使ってるからね」
「看板の色を確認するために出歩くのか」
「飯のついでさ。必ずおいでよ」
「……ついでか」
オスカルさんの用事が一つ増えた。
◇
午後の光が傾きかけた頃。三階の技術書の棚。
周囲の空気がわずかに密度を持つ。エルトがいつもの席で本を読んでいる。
階段を上がってくる足音が軽い。とん、とん、と指先が手すりを叩く音で誰だかわかる。
「はあ、来週また合同会議。議題が六つに増えて、資料が追いつかなくてさぁ」
ミリアが椅子を引いて座る。深緑の上着。八角形の銀バッジ。
「時計屋さんも、夏は忙しいんでしょ?」
「……湿気で狂うんだ。持ち込みが倍になって、みんな立て込んでる」
「倍。あたしの会議資料も倍になったよ」
「張り合うなよ」
「張り合ってない。ただの、愚痴だよ」
チェザが論文を持って上がってきた。
「ミリアさん、こちらの資料です」
チェザが会釈して離れる。エルトがその背中をちらりと見た。
「新しい子だ」
「見習い。十二歳だって。しっかりしてるよね」
二人が並んで読んでいる。時々ミリアが何か言い、エルトが短く返す。沈黙を挟んだ言葉の応酬。
「……お店の陳列窓。時計、動いてたね」
一拍、間が空いた。
「動いてるほうがいいよ。時計屋の陳列窓で時計が止まってたら、腕が悪いと思われるでしょ」
「商売の話かよ」
エルトが鼻で笑った。この人が笑うところは珍しい。
「商売の話だよ。何の話だと思った?」
答えはなかった。
◇
閉館。
夕暮れに沈む窓の向こうで、何かの反響音が聞こえた気がした。
朝、北へ向かった影はまだ見えない。




