8月9日『…曜日』
紙と木と、かすかに甘い蝋の匂い。
日曜の夕方。窓から入る光が次第に傾いて、埃の粒子がゆっくり泳いでいる。昼のにぎわいが収まりはじめ、まだ完全には静まりきらない午後。潮の満ち引きの境目のような時間。図書館のこの時間がいちばん好きだ。
窓際の三番席。今日も椅子がきちんと収まっている。午後の光に木目が浮かぶ。あの木目の一本一本を知っている。そういう気がする。数えたことがあるのかもしれない。ないのかもしれない。もう覚えていない。
あの椅子に手を伸ばす。指先がその表面に届いている気がするのに、感触が返ってこない。木の感触。布張りの座面の感触。午後の日射しに温められているのか、朝からずっと空いていたように冷えているのか。確かめる術がない。
いつからそうなのか。考えて、考えかけて、やめた。必要のないことだ。ここにいるのだから。
うたた寝をしている老人の背中が見える。灰色の翼。穏やかな寝息が梁に当たって、震えて散る。誰かがページをめくる気配が空気に溶けていく。足音が石の床板をすべっていく。どれも聞こえる。遠くで聞こえている。
ひとつひとつが、確かな理由になっていく。
◇
扉が開いた。
潮の匂い。紙と蝋と埃に慣れた鼻の奥を、塩気のある風が撫でていくようだ。
一人。日に焼けた肌。乾いた唇。指先に白いものがこびりついている。夏の光の中で、彼だけが別の季節から抜け出してきたように見えた。
「――本はありますか」
丁寧すぎる声だった。誰の声だろう。誰に向かって言っているのだろう。返事がどこかであったのかもしれない。なかったのかもしれない。わたしには判らなかった。
男が書架の間を歩き始める。一度も迷わず。一度も止まらず。
この人は、ここを知っている。見たことがある。そうやって歩いていたのか。そうやって歩くのを見ていたのか。思い出そうとすると、水のように指の間から抜けて、消えていく。
記憶が角を曲がる。右手が棚板の凹凸に沿う。三番目の席。空いているのを確かめるように。
三番目の席。あるいは、なくしたものを探す目で。
◇
ページをめくる。めくるたびに言葉が遠のく。
触れたところから文字が薄れ、余白だけが残る。次も。その次も。またその次も。読もうとするたび、読むべきものが泡になって消えていく気がする。
「――ですね」
書架の間に立ち、天井の梁を見上げてる。
「風が――」
記憶のいちばん奥底で、乾いた紙の束が軋んでいる。あれは誰の記憶だろう。何の記憶だろう。
◇
閉館の鐘が鳴る。
白い足跡だけが残っている。外に向かう足跡はない。
誰かがまたあそこに座る。椅子が机から離れている。栞を進めていく。
誰かが。
◇
三番目の席。
ここが好きだということだけ、覚えている。




