表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
131/143

8月9日『…曜日』

 紙と木と、かすかに甘い蝋の匂い。


 日曜の夕方。窓から入る光が次第に傾いて、埃の粒子がゆっくり泳いでいる。昼のにぎわいが収まりはじめ、まだ完全には静まりきらない午後。潮の満ち引きの境目のような時間。図書館のこの時間がいちばん好きだ。


 窓際の三番席。今日も椅子がきちんと収まっている。午後の光に木目が浮かぶ。あの木目の一本一本を知っている。そういう気がする。数えたことがあるのかもしれない。ないのかもしれない。もう覚えていない。


 あの椅子に手を伸ばす。指先がその表面に届いている気がするのに、感触が返ってこない。木の感触。布張りの座面の感触。午後の日射しに温められているのか、朝からずっと空いていたように冷えているのか。確かめる術がない。


 いつからそうなのか。考えて、考えかけて、やめた。必要のないことだ。ここにいるのだから。


 うたた寝をしている老人の背中が見える。灰色の翼。穏やかな寝息が梁に当たって、震えて散る。誰かがページをめくる気配が空気に溶けていく。足音が石の床板をすべっていく。どれも聞こえる。遠くで聞こえている。


 ひとつひとつが、確かな理由になっていく。


           ◇


 扉が開いた。


 潮の匂い。紙と蝋と埃に慣れた鼻の奥を、塩気のある風が撫でていくようだ。


 一人。日に焼けた肌。乾いた唇。指先に白いものがこびりついている。夏の光の中で、彼だけが別の季節から抜け出してきたように見えた。


「――本はありますか」


 丁寧すぎる声だった。誰の声だろう。誰に向かって言っているのだろう。返事がどこかであったのかもしれない。なかったのかもしれない。わたしには判らなかった。


 男が書架の間を歩き始める。一度も迷わず。一度も止まらず。


 この人は、ここを知っている。見たことがある。そうやって歩いていたのか。そうやって歩くのを見ていたのか。思い出そうとすると、水のように指の間から抜けて、消えていく。


 記憶が角を曲がる。右手が棚板の凹凸に沿う。三番目の席。空いているのを確かめるように。


 三番目の席。あるいは、なくしたものを探す目で。


           ◇


 ページをめくる。めくるたびに言葉が遠のく。


 触れたところから文字が薄れ、余白だけが残る。次も。その次も。またその次も。読もうとするたび、読むべきものが泡になって消えていく気がする。


「――ですね」


 書架の間に立ち、天井の梁を見上げてる。


「風が――」


 記憶のいちばん奥底で、乾いた紙の束が軋んでいる。あれは誰の記憶だろう。何の記憶だろう。


           ◇


 閉館の鐘が鳴る。


 白い足跡だけが残っている。外に向かう足跡はない。


 誰かがまたあそこに座る。椅子が机から離れている。栞を進めていく。


 誰かが。


           ◇


 三番目の席。


 ここが好きだということだけ、覚えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ