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8月8日『底掘りの歌』

挿絵(By みてみん)

 二階に古い紙の匂いが溜まっている。


 土曜の朝。郷土資料室の換気に上がると、棚の間にしゃがみ込んでいる背中をみつけた。虹色の毛並みに今日は石の粉がついていない。革のホルスターだけがいつも通り腰に下がっている。


 ザラが本を読んでいる。


 坑道の地図でも保安報告書でもない。膝の上に広げているのは、黄ばんだ紙束だった。


「……なに見てんだい」


 振り返らずに言う。耳だけがこちらを向いている。


「珍しいものを見たので」


「うるさいな。あたしだって読むときは読むんだよ」


 棚に寄りかかったまま表紙を見せた。『坑夫歌集 第三巻』。六十年ほど前に編まれた、坑夫の労働歌の採集本。


「地図にないなら、地図より前の話を探すしかないじゃないか」


 あの調律師との日のことだろう。壁に手を当てて、向こう側から何かが届いていると体で知った日。


「坑道の一番奥、『赤壁』の向こうはどの地図にも載ってない。あの先に何があるのか知りたいんだけどさ」


 ページを指で叩いた。


「この歌がね。……引っかかるんだ」


           ◇


 『底掘りの歌』。坑夫が交代時に歌う数え歌。全九番のうち、七番だけ調子が変わる。


 ザラが声に出して読んだ。


「七つの穴の底の底。扉の向こうは掘ってはならぬ。掘ったら暗い海に出る。海に出たなら戻れない」


 編者の注釈にはこうある。この七番を歌える坑夫は採集時点で三人だけだった。いずれも六十年前の時点で七十を超えた最古参。全員が「じいさんに教わった」「じいさんも場所は知らない」と口を揃え、歌だけが残った。


「地図は消えても、歌は消えない……ね」


「でも、歌からは場所が分かりませんね」


「そう。だからもう一冊――」


 言い終わる前に、チェザが棚の下段から一冊を引いていた。


 『フリア市史稿 別冊 坑図録』。鉱山局の刊行物。百二十年ほど前に閉鎖された西部鉱山の坑道図だ。


「素早いね、あんた」


 ザラが目次をぱらぱらとめくり、止まった。番号が振られていない旧坑道。閉鎖理由は一語『落盤』とだけ。『管理状況 封鎖済 石質調査 定期点検予定なし』。張り巡らされた坑道の中で、ここだけが番号体系から外れたままになっている。


「百二十年以上は放ったらかしってことか」ザラが図録を膝の上で閉じた。


 三冊目は、チェザが引いた。


「整理中に気になった本を見つけてしまって」


 『山と水の境――フリア周辺地誌聞書き』。太古の紀行文。末尾に、鍛冶師から聞いたという一節がある。


 ――この街にはすでに道が掘られていた。掘り進めた先で、継ぎ目のない壁にぶつかったのだ。叩くと、向こう側で水が流れる音がした。地下水が噴き出ることはよくあるが、どうも様子がおかしい。古老は「ここから先は、海から来たるものの道だ」と言い、そこで掘るのを止めさせた。


 三冊が棚の前に並んだ。歌と記録と伝聞。三つの時代の声が同じ場所を指している。


「海から……か」


 チェザの動きが止まった。


「……ふるさとの古い話で聞いたことがあります。網目のように大地を流れる水の道の伝承です。地下深くに海の民が暮らす街があったとも」


「海の都の伝承か。あんた……港町の子かい? 腐海(ソーン)の拡大とも何か関係があるのかね」


 チェザが少しだけ迷って頷いた。


「まあいい。三冊とも借りてくよ」


 ザラが鼻を鳴らした。


           ◇


 午後の光が傾き始めた頃、別の影がカウンターに立っていた。


 灰色のフード。まっすぐな背筋。フードの縁から覗く三角耳。


「ダリア殿に報告書を預けたい」


 ウーツさんだった。報告書を預かり、執務室のテーブルに設計図を広げた。弾頭の断面図だ。


「まだ試作段階なのですが、ある魔道具士の手で封入の安定化に成功しまして。ダリア殿が今朝から交渉に出ておられる次第で――」


 ――ウルスラ。その名が、再び頭に浮かんだ。遠い記憶の中にあるはずの手つきが、設計図の線の中に息づいている。


 かつて自分も扱った技術の延長線上にあるもの。振動を封じ込め、光の力を纏わせて減衰を遅らせる。二つの属性が層をなした、能力(リンクス)装弾の構造図。


「……この干渉制御の配置。理に適っています」


「ええ。私の知る魔道具士の中でも、指折りです」


 ウーツさんの声がほんの少しだけ緩んだ。翡翠色の瞳がこちらに移り、また図面に戻る。この人の感情は、瞳の動きにだけ出る。


 茶を運んできたチェザが、設計図の端に一瞬だけ視線を置いた。何も言わず、茶を置いて退出した。


 設計図を巻きながら、ウーツさんが応接室を見回した。


「明日から製作に入ります。量産はまだですが、十日には実地試験を行う予定でありますので――」


 頭を下げ、午後の光の中に消えていった。


           ◇


 閉館後、貸出記録を見返す。


 ザラとウーツの名前が並ぶ。かつての仲間二人。壁の向こう側に、それぞれの方法で手を伸ばしている。


 窓の外は静かだった。ずっと聞こえていた石割りの不協和音がない。


 代わりに、鐘が鳴っている。低い音がひとつ。


 教会の補修工事が終わったのだ。鐘の音が新しい石に当たっている。以前より響きが厚い。フィンクさんが調律し直した結果だろうか。


 チェザが閉館業務をしながら、静かに耳を傾けていた。


「……鐘の音って、水の中だとずっと遠くまで届きます。港の教会の鐘が鳴ると、潜っている漁師さんたちの方が先に気付くんですよね」


 渡り廊下を歩いていく後ろ姿が振り返った。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 鐘がもう一度鳴った。


 この音は、この街の地下のどこまで届いているのだろう。

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