8月7日『貝のかたち』
噴水の水音が、午後の中庭に低く沈んでいる。
内窓から外を見ると、噴水の縁石に背中が二つ。片方はチェザ。膝に厚い図鑑を広げている。もう片方は貝殻さんだ。丸い覗き窓を図鑑のほうに傾け、見入っていた。
縁石に白い貝の欠片が五つ。等間隔に並べてあるのは、彼女の几帳面さだろう。先週、噴水の底から引き揚げた、あの貝殻だ。
ページが繰られるたびに覗き窓が動く。それ以外に変化はない。二人はほとんど噴水の一部に見えた。
チェザがやってきて一週間。来館者と並んで座っている姿を見たのは、初めてのことだった。何か声をかけるべきか迷って、やめた。
◇
「――あ、ごめん、入っていい? 花が気になっちゃって」
三角の耳。琥珀色の目。革の肩掛け鞄から試香紙がはみ出している。調香師見習いのニッカだ。
中庭の香りを記録しに来たらしい。頼んだ覚えはないのだけれど、いつもカウンターに報告してくれる。
植木鉢の前にしゃがみ込んで、葉に鼻先を寄せて目を閉じた。耳が前に倒れている――集中しているときの癖。別の葉を鼻先に持っていくのを繰り返しては、試香紙に何か走り書きしている。
立ち上がりかけて、噴水のほうへ首を傾けた。三角の耳がぴくりと動く。何かの匂いを拾ったらしい。けれどすぐ植木鉢に戻った。風向きが変わったのかもしれない。
そこへ、包み紙を抱えた女性が中庭に入ってくる。赤い頬。腕まくりの袖口に残った白い粉。カミラさんだ。夏至の鍛冶祭で屋台を出した菓子職人。この図書館で見かけるのは久しぶりのことだ。
「夏祭りの屋台の試作なの。味見してくれない?」
味の感想を聞いて回る癖は相変わらずらしい。ここを試食会場だと思っている節がある。
ニッカが振り返る。包みを開ける前に、鼻を寄せた。
「蜂蜜と……生姜。あと鋳型の鉄がわずかに移ってる。新しい品ですね」
「へえ。型のことまでわかるの?」
「配合は。えっと……六対一?」
「七対一。惜しい」
三角の耳がぺたんと伏せた。「……七だったかあ」
◇
噴水の向かいのベンチには大柄の少年が座っている。
エミールだ。がっしりした肩に似合わない繊細さで、画帳に鉛筆を走らせる。今は噴水の縁に座る二人の姿を描いているらしい。目を細め、鉛筆を走らせ、止め、また走らせる。
菓子職人がベンチに寄った。
「あなたもどうぞ。どの形がいい?」
包みの中に三種類の形。波の浮き彫り、ぎこちない魚、歯車の中に貝殻が嵌まった型。少年は三つ眺めて、波の浮き彫りを取った。
「この輪郭、いい形です」
少年は波型の焼き菓子を掲げて片目を閉じ、噴水の水面と見比べていた。
菓子職人は噴水のほうへ歩いた。見習いに一つ差し出す。
「あなたが見習いさん? はい、お一つ。――夏祭り、来る?」
「行ったことないんです」
「ほら。今年は魚の形も作ったの。図鑑から形を起こして、本物見たことはないんだけどね」
カミラさんが貝の型を持ち上げてみせた。
チェザが菓子を見て、ほんの一拍、間を置いた。
「……かわいい形ですね」
カミラさんが、そのまま貝殻さんにも差し出した。
丸窓の奥で、瞼のない目がゆっくり細まる。受け取ろうと手を伸ばしかけて、止まった。口元まで運べない服の構造に気が付いた様子だった。
チェザが手を伸ばした。
「わたしが預かっておきますね」
◇
日が傾きかけた頃。記録を終えたらしいニッカが、カウンターの前に立った。
「あの二人のとこ、匂い変わりました。潮と……なんだろ、あたしの知ってる海じゃないんですよね。濃い匂い……不思議です」
窓から中庭を覗く。残っているのは三人だけになっていた。
閉じた図鑑が隣の縁石に置いてある。チェザと貝殻さんが並んだまま、五つの貝の破片を見ている。調べるのをやめたのか、調べ終わったのか。あるいは、もう図鑑が要らなくなったのか。
貝殻さんが、欠片の一つを取り上げた。チェザが手を添え、噴水の水にゆっくり沈める。すると、ほんの一瞬だけ、水面が変わったように見えた。
ベンチのエミールの手が止まっていた。画帳を膝に載せたまま、描くことを忘れて二人のほうを見ていた。
◇
貝殻さんが立ち、チェザが立つ。互いに向き合って頭を下げた。どんなやり取りがあったのか、ここからではわからない。
貝殻さんの背中が門を出ていき、チェザが図鑑を返しに来る。貝の図版のページに栞が挟まっていた。
遅れて、エミール。
「あの、これ。よかったら」
差し出された一枚のスケッチ。噴水の前の二つの人影。片方が膝に本を広げ、もう片方が丸窓を傾けて覗き込んでいる。図鑑をさす指先と、それを追う丸窓の傾き。声のない午後。水面には波紋が一つだけ落ちている。
◇
閉館。
貸出帳をつけながら、ふと手が止まった。今日は貝殻が増えなかった。




