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8月6日『おやすみの途中』

挿絵(By みてみん)

 午後。鉄を打つ音が、二枚の窓ガラスを隔てても届く。


 返却台帳のインクが乾くのが早い。八月の空気は図書館の石壁の内側にも容赦なく入り込んでいて、今日に限って来館者の足は遠い。


 チェザが待合の長椅子を拭き終え、雑巾を絞っている。水の音が涼しい。


 と、入口の扉が開いた。


 女性が一人、その腰に張りつくように子供が一人。


 カウンターに近づいてくる足取りで、遠くから来た人だとわかる。均一に減った靴底。一日二日の距離ではない。しかし、荷物は背嚢ひとつだけ。必要なものだけ詰めて出てきた旅の軽さだった。


 娘は八つか九つ。両腕で何かを抱えている。布に包まれた、平たいもの。


「この石のことが書いてある本を探しておりまして」


 女が布をほどいた。蛍石の薄い板。蝶番の片方だけが残った形――これは、綴り板の半分だ。


 綴り板(タブレット)。または伝播石とも呼ばれる。一つの鉱石を二つに割り、片方に書いた文字がもう片方に浮かぶ。距離を越えて互いの変化を伝え合う、魔道具の一つ。


 表面には幾何学的な紋様。光の加減で、深い水の底にある石を覗いたときに似た色が揺れる。


「夫がこの片方を持って、こちらの討伐隊に参加していまして」


 夫は冒険者だという。六月初旬の増援要請を受けてマレフから派遣された。綴り板で毎晩、娘に「おやすみ」を送っていたのだが、十日前を境に文字が届かなくなった。


 冒険者ギルドと討伐隊詰め所に確認したところ、現在作戦の真っ最中で連絡が取れないと言われた。


「――それで、せめて石が壊れたのかどうか知りたくて」


 綴り板を手に取る。冷たい。しかしこれは、死んだ石の冷たさではない。


 指の腹に、微かな振動を感じる。『銘の名残り』だ。摩耗はしているようだが、消えてはいない。掌を当て、三つ数えて振幅の質を読む。――冒険者をしていた頃の感覚を次第に思い出していた。


 石はまだ生きている。


「少々お待ちください」


 二階に上がった。技術書の並ぶ三階ではなく、暮らしの実用書が並ぶ二階の棚に。


 背表紙が何度も貼り直された一冊を引く。『対の道具とその仕舞い方』。


 開くと、章ごとに筆跡が違う。誰かが困っては書き足し、次の誰かがまた書き足す。そうやって生まれた経験の地層だった。


           ◇


 カウンターに本を置いた。女性はアメリーと名乗った。並んでページをめくる。


「最後の文字は、どんなふうに消えましたか」


 アメリーは少し間を置いた。


「急にじゃないです。何日かかけて、徐々に薄くなりました」


 それから――と言いかけて、娘の頭をぽんと叩いた。娘はカウンターの縁に顎を乗せて、綴り板を見つめていた。


「だんだんと字が細くなって。そして、文字から温かさがなくなりました」


「……温かさが消えてから、何日くらいで文字のほうも止まりましたか」


「三日目の夜です。"おやすみ"の途中で――」


 声は変わらなかった。ただ、娘の頭に置いた手が、少しだけ強くなった。


 待合の長椅子で、チェザと娘が並んで座っている。


 娘が石板の表面に指で「パパ」と書いた。何も浮かばない。


「返ってこない」


 チェザが少し間を置いた。


「……届いてるかもしれないよ」


「ほんと?」


「うん。石はちゃんと覚えてると思う」


 娘が石板に耳を当てた。


「あったかくはないけど、冷たくもない」


 チェザが石板に手のひらを置いた。目を閉じて、二秒ほど。


「……少しだけ。残ってる」


           ◇


 『石が冷たくなるとき』の章。


 現象には名前がついていた。『字の肌』。精度が高い綴り板は、文字だけでなく、書いた瞬間の指先の温度や筆圧の揺れまで伝える。


「大丈夫。この綴り板は壊れていませんよ」


 アメリーがカウンター越しにこちらを見た。


「石が破損すると、文字が消えたあとに急に冷えるのです。持ち主の手を離れると、握っても温まらないほどの冷たさになる。しかし、この綴り板にはまだ、わずかに熱が残っています」


「それはつまり――」


「何日もかけてじわじわ冷えるのは、銘の摩耗が原因でしょう」


 銘とは、持ち主の力を石に写し取ったもの。声や筆跡と同じで、同じ形は二つとない。綴り板はこの銘を鍵にして持ち主にだけ応える。


「石のほうが、先に疲れてしまったようです」


 瘴気の中で力を使い続ければ、体の芯の出力がぶれる。ぶれた力が銘を削る。逆に言えば、銘がすり減っているのは、持ち主がまだ力を振るえている確かな証拠でもある。


「ご主人も、ご無事ですよ」


 アメリーの肩から、糸が一本抜けるように力が落ち、少しだけ笑った。


「……加減を知らないんですよ、あの人ったら」


 綴り板を返す前に、蝶番の内側が目に入った。小さな刻印。丁寧で、深すぎない、見覚えのある形――。


「……銘は入れ直しでも回復しますが、時間と共に自然と元に戻ります」


「必要なのは休養だったのかしらね」


 アメリーは笑った。二度目の笑い方のほうが、柔らかかった。


           ◇


 閉館が近づいていた。


 『対の道具とその仕舞い方』がカウンターに置いてある。閲覧室にいる娘は、チェザの隣でうとうとしている。旅の疲れが出たのだろう。


 入口の方で、金属が擦れる音がした。


 娘が目を覚まし、椅子から滑り落ちるように駆け出した。チェザの膝の上に置いていた綴り板が取り残された。


 入口に、日焼けした大きな男。鎧の胸当ての紐が緩んでいる。腕に包帯が巻いてあるが、歩き方は重くない。娘が足にぶつかった。「パパ」。男が片手で抱え上げた。


 アメリーはカウンターの向こうから動かなかった。長い目で夫を見ている。


 チェザが椅子に座ったまま、綴り板の表面を手のひらで一度だけ撫でる。本の背表紙に触れるときと、同じ仕草だった。


           ◇


 閉館。


 執務室のテーブル。番の魔導書が、いつもの場所で静かな光を帯びている。


 対の片方が沈黙するとき、もう片方にはそれがわかる。


 この光は、沈黙だろうか。それとも。

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