8月5日『この加減に』
どこにいても鉄の匂いがする。
扉を押した瞬間、それが鼻の奥に飛び込んできた。アエリアの丘には風と草と、せいぜい風車小屋の油しか匂わない。ここの空気はとにかく重い。呼吸するたびに喉が金属の味を帯び、羽根まで錆びそうだった。
ヴァイス教授の命令だからここにいる。
「送風技術の文献を調べてレポートにまとめろ。夏季休暇だからといって遊ぶな」
教授はいつもこうだ。卒業研究は上昇気流の持続条件であって、鍛冶場の煙の話なんかではない。これは嫌がらせなんだ。さもなくば教育的配慮とでも言うつもりか。どちらにしても迷惑な話だ。
母に手紙を書かなくては。いつもの定型文。「勉強は順調です」と。
本当は学院から遠く離れた工業都市の図書館で、煤にまみれた手帳を読まされている。正直に書いたら心配するだろうか? いや、母ならきっとこう言う。
「教授の指示に従いなさい。うちはお屋敷の家じゃないのだから、あなたは実力で上がるしかないのよ」
はい。知っています。おっしゃる通りです。若草色の羽根は空を飛ぶには十分だけれど、白亜の廊下を歩くには足りない。それも知っています。
◇
受付に立つ女性に声をかける。
「気流制御の理論体系に関する文献を探しているのです」
銀青の髪がわずかに揺れた。
「理論書という分類はございませんが」
「……ないのですか。では、流体力学の基礎文献は」
「流体力学、ですか」
声に困惑はなかった。知らないのではなく、その言葉がこの棚に存在しないのだ。気づくのに三秒かかった。学院では通じて当然の用語が、ここでは通じない。
「実用書でしたら二階にございます。鍛冶炉の設計書や換気の図面など」
案内されるまま階段を上がる。翼を畳んでいても、羽先が壁に擦れそうなほど狭い通路。この街の建物は、飛ぶ者のことを考えて作られていない。学院の廊下なら翼を広げたまま歩ける。
棚に並ぶのは職人の手帳ばかりだった。背表紙は煤け、分類番号すらほとんど統一されていない。閲覧席に座り、持参したノートを開く。向かいの席で、指の黒い若い男が図面を広げていた。革の前掛け。職人だろうが、こちらを見もしない。
どうしたものだろう。このまま教授に「成果なし」と報告するのだけは避けたい。あの人はレポートの不備に関してだけは記憶力が異常に良いのだ。
◇
「こちらはいかがですか?」
顔を上げると、見習いらしい少女が一冊の手帳を差し出していた。黒髪。左右の瞳の色がわずかに違う。十二、三歳だろう。背が低い。
「こちらは何かしら?」
「送風口の角度と炉の温度の記録帳です。三十年分の」
「……三十年?」
思わず繰り返した。受け取った手帳はずしりと重い。表紙に題も著者名もない。大量の数字の羅列。文字は左に傾いて、正直なところ、読みにくくて仕方がない。
「すみません、ちょっと文字は読みにくいかもしれないんですけど。でも数字のほうは正確だと思うんです」
眉が寄ったのを見たのだろう。気を遣わせてしまった。
「いいえ、ありがとう。見てみるわ」
期待などしていない。教授への義理で目を通す、それだけのつもりだった。
少女が隣の椅子を引く。
「一緒に読んでもいいですか。わたし、数字を追うのが好きなんです」
この歳の見習いが、数字を追うのが好き? 変わった子だと思いながら頷く。
「ええ、どうぞ。でも退屈かもしれませんよ」
実際、最初の数ページは退屈だった。温度の数値が並ぶだけで、何を意図した記録なのかが見えてこないのだ。どんな教科書にも載っていない書式の連続。あくびが出かけた時に、少女がページの端を指した。
「ここ。数字の傾きが変わっています。書いている方の姿勢が変わったのかもしれません」
「姿勢?」
「左利きの方は力を入れると字が立つそうです。……鞴を踏みながら書いている」
鞴を踏みながら、炉端で片手に羽根ペンを握る。机に向かって整えた記録ではない、仕事の最中の走り書き。
――わたしは机の上でしか書かないな、とふと思った。
「あなた、よく気づくのね」
向かいの席で図面を畳む音がした。指の黒い男が、頭を下げて帰っていく。
◇
ページを進める手が少しだけ遅くなる。三十年分の数字が、ある時期を境に振れ幅が穏やかになっていた。何かを掴んだのだ、この人は。しかし何を掴んだかは一言も書いていない。ただ数字だけがそれを語っていた。
「ここ」
少女が一つのページで手を止めた。炉の断面を描いた粗い図に矢印がいくつも書き込まれている。
「この矢印、風が丸く回っていませんか」
覗き込む。送風口の位置が、炉の中心に向かっていない。壁に沿うようにずらされて、矢印が渦を描いている。横に走り書き――「指二本分だけ。この加減に」。
手が止まった。
壁に沿わせて風を吹き込めば、炉の中で回りつづける。そして、炎が自ら空気の流れを生みだす。わたしがノート三冊分の仮説で追いかけた『気流の持続条件』。この職人は、たった指二本で掴んでいた。
少女の横顔を見る。首をわずかに右に傾けて図を眺めている。
「……ねえ。もしかして、これがどういう意味か、わかってた?」
「いえ。ただ、回っているように見えただけです」
◇
閉館の鐘が鳴るまで席を動けなかった。手帳の数字を自分のノートに書き写す。走り書きも、意味のわからない略号も、とにかく全部。
受付で貸出の手続きをする。鞄から風向計の小さな飾りが転がり落ちた。港で買った、出発前の自分への餞別だ。見習いの子が拾って差し出す。金属の部分に指が一瞬留まった。
「きれいですね。……港のものですか」
「アエリアは丘の街だけど、海も近いの」
少女は小さく頷いて返してくれた。
手帳を持ち直す。
「ねえ、もうひとつ聞いていい? この手帳を書いた方は、まだご存命かしら」
銀青の髪の女性が、少しだけ間を置いて答えた。
「十年ほど前に」
『指二本分だけ。この加減に』。それだけを書き残して、炉の前に立ち続けた。
外に出る。鍛冶場の煙が空に昇っていた。ただまっすぐ上り、そして散っていく。鉄と、煤と、三十年分の知恵。重くまとわりつくだけだったこの街の空気が、少しだけ違うものに感じられた。
レポートには何と書こう。「理論書はありませんでした。ですが」――その先が、まだ言葉にならない。




