8月4日『煙突の猫』
糊を温める匂いがする。
八月の応接室は窓を開けても熱がこもる。作業台の上に並んだ三冊の本と、革の道具袋。持ち手だけ色の変わった鞄の口を、深緑色の鱗をした細い指が開く。
「今日、見学したいという子がいるんです」
鞄から刷毛を出す動作が止まらない。布を広げ、骨ベラを置き、糊壺の蓋を外す。一連の所作に迷いがなかった。
「ああ。……あんたが言うなら」
それだけ言って、ザルツさんは三冊の本に目を落とした。左から薄い見本帳、紐の切れた落書き帳、革表紙の詩集。
「……よろしくおねがいします」
チェザが応接室の入口に立っていた。体の前で姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。ザルツさんは頷いただけで、道具の配置に戻っていた。チェザが作業台の横の椅子に座る。
「この順番。意味があるんですか?」
三冊を順に見比べて、チェザが訊いた。
「……ある」
それ以上の説明はない。
◇
一冊目。建具金物の見本帳。
薄い厚紙の表紙に鳩目留め。全十二ページの薄い冊子。各ページに金物の図案が手描きされ、その横に穴が二つずつ開いている。かつて金具が針金で綴じ付けてあった痕。金具はすべて抜かれている。
錆びた鳩目を外す。金属の粉が微かに散り、午後の光の中で鱗の手の甲に落ちる。
「これは、何の本ですか」
「建具金物の見本帳」
「この本。……穴だらけです」
「ああ。元は金具がついてた。抜かれてる」
「金具は戻さないままですか?」
「……俺は金具屋じゃない」
チェザが口をつぐむ。けれどすぐに、別の角度から質問が飛んだ。
「穴だけだと、何の金具だったかわからないですよね?」
ザルツさんが穴のひとつに指を当てる。指先だけが動き、手首から先は揺れない。
「……蝶番だな。小型のやつだ」
最後のページは空白だった。図案がなく、穴だけが一つ。
「ここ、絵が付いてないです」
「……描く前に金具がついたんだろう。試作品のカタログだ」
「設計図より先に物ができたんですね」
「よくある」
それは本当だ。この街の職人は図面より先に物を作る。
新しい鳩目を打ち、穴を補修し、見本帳を閉じる。
一冊目、完了。作業時間は、茶を一杯淹れるより短かった。
◇
二冊目。子供の落書き帳。
寄贈品に紛れていた、手製の本。紐が切れ、八枚の紙がばらばらになっている。フリアの煙突と工場を鉛筆で描いた絵。色は塗られていないが、構図に妙な正確さがあった。
「……紐が切れただけだ。中身は傷んでない」
「これじゃ、順番がわかんないですね」
「絵を見ればわかる」
チェザが身を乗り出した。顎が作業台の縁にかかる高さで、目だけが紙の上を走る。
「うーん。これが最初かなあ」
「違う。煙は下から上に昇る」
「……あ」
二人で並べ始めた。ザルツさんが一枚選び、チェザが隣に次の一枚を置く。
煙突から煙が出て、昇って、広がって、空に届いて雲になる。八枚が一続きの物語になっていく。
一枚だけ、煙突ではなく煙突の上に座っている猫の絵があった。
「猫の絵が最後じゃないですか? 煙が全部昇った後に、猫だけ残って」
ザルツさんの手が止まった。
「最初だ。猫がいるから煙突を描いた」
どちらも構成としては筋が通る。チェザは物語の構成として、ザルツさんは職人の観察として。どちらも正しく聞こえる。
「……持ち主に聞け」
ザルツさんが猫の絵を一番上に置き、新しい紐を通した。結び目を固く締める。修復師の判断は「最初」だった。
チェザが、綴じ終わった落書き帳をしばらく見ていた。どちらから開くかで、最初と最後が入れ替わる。
「……これ、表紙ってどっち?」
ザルツさんの縦長の瞳孔が、一瞬だけ丸くなった。
◇
三冊目。詩集。
掌に収まる革表紙。背の糊が割れて、本が開いたまま閉じない。この本には見覚えがあった。二階の棚にあったアポスタティ刊行の連作詩集で、各都市の仕事を詠んだもの。寄贈者の名は擦れて読めない。
「背が割れているな。締め直す」
ページを開いて、ザルツさんが動きを止めた。鍛冶の詩のページに、青い花が挟まっている。乾燥して茶色くなり、紙にも色が移っていた。
「あ、花挟まってます」
「……ああ」
ザルツさんは花弁を慎重に取り出し、刷毛より丁寧に扱って作業台の脇に置く。紙のように薄く透けている。
背を締め直し、糊が乾くのを待つ間に、チェザが訊いた。
「花、戻しますか?」
「戻さない」
短かった。チェザの目が上がる。
「色が紙に移ってる。戻せばまた進む。花は本を傷めてしまうんだ」
「でも、挟んだ人が――」
「跡がある。それで十分だ」
チェザが口を開きかけて、閉じた。それから二箇所目のページを覗き込む。花はなく、色移りの輪郭だけが残っていた。
「跡だけ」
ザルツさんの指が、色の輪郭をなぞった。
「ああ。前にも直したやつがいる。同じことをしたんだろ」
チェザがしばらく黙っていた。
「……跡を見れば花があったことはわかる」
「ああ」
「取った人がいたことも、わかるね」
ザルツさんの鼻の穴がわずかに広がった。
背を閉じる。取り出した花弁を薄紙に包んで、本の上に載せた。
◇
三冊の修復が終わった。
ザルツさんが道具を片付け始める。刷毛を洗い、布で拭き、穂先を揃えて鞄に戻す。その手順に迷いがない。
「これ、どう置けばいいですか?」
チェザが、手元の刷毛を見た。三冊目で糊を塗るのを手伝ったとき、ザルツさんが一本だけ貸した糊刷毛。
「穂先、手前に」
「どうしてですか?」
「次に取るとき、穂先が汚れないんだ」
「誰かに教わったんですか?」
「……ああ。昔の話だ」
それだけ。師匠の名前も、言葉の引用もない。ただ「ああ」と言って、鞄の口を閉じた。
◇
ザルツさんが帰ったあと、チェザが作業台を拭いていた。
台の端に刷毛が一本、穂先を手前にして置いてある。
来週のために、椅子をもう一脚出しておこうと思った。




