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8月26日『背表紙のない本』

挿絵(By みてみん)

 水曜の午後。二階の閲覧室に人が少ない。


 窓際の席で、イルマさんが手帳を開いたまま動かずにいる。ペンは机の右端に置かれている。書く構えではない。午後の光が書架の背を斜めに照らし、白いページだけが四角く光っていた。


 待っている姿勢。商工日報の新しい企画で、最近廃業した工房の話を集める連載を始めたという。今日はある刻印職人と約束があるらしい。工房印や品質印の母型を手彫りする――新しい工房が開くとき、道具に職人の印を彫る仕事だという。


 階段を、大きな足音が上がってきた。一歩ごとに書架の木が微かに軋む。


「おう、記者さん」


 額に硬い隆起のある大柄な男が閲覧室の入口に立つ。夜番頭さん。工場の煤で黒ずんだ作業着のまま来ることは珍しくない。ただ、今日はイルマさんを探していた。


「刻印屋のじいさんから伝言だ。今日は会えなくなった、とよ」


 イルマさんが顔を上げる。


「理由は聞きましたか?」


「さあな」


 声がほんの少しだけ落ちた。


「あの人はもう工房の話はしたくねえんだと思うぞ。……終わったことだからよ」


 イルマさんの指が、机の上で止まる。


「あの人の印はよかった。うちの炉章も道具印も、あの人に彫ってもらったものだ。四十年使って、一度も欠けなかった」


 夜番頭さんはそれだけ言うと踵を返した。一階に降りていく途中で振り返り、


「じゃあな、記者さん。いい記事書けよ」


 声が元の大きさに戻っている。足音が階段を降り、遠ざかっていく。二階に静けさが戻った。さっきとは違う静けさに思えた。


          ◇


 イルマさんの手帳が閉じられる、小さな音がした。


 窓の外を見ている。指先がかすかに動いていたが、それもやんだ。


 私は棚の整理を続けていた。分類番号のずれた一冊を正しい位置に戻し、隣の棚に移る。イルマさんのそばを通ったが、声はかけなかった。


「閉じた側の声を集めるつもりでした」


 独り言なのか、私に向けているのか、境のない声だった。


「声を出したくないのは、当たり前のことなのでしょうか。閉じた工房が、誰にも知られることなく消えていく。その行方を――」


 私は手を止めた。


「記事になることと、話をすることは、別のことなのかもしれませんね」


 イルマさんが振り向いた。


「ですが……理由を知りたいんです。書かないにしても、なぜ――書けないのかを」


 数日前のことを思い出していた。年配の男が二階の奥に入っていった姿。何かを検めるように棚を見て――何も借りずに帰っていく、その後ろ姿を。


「先日のことです。その方がこちらに来られました」


 イルマさんの視線がこちらに向く。手帳に書かれた名前に目を落としながら続ける。


「二階の奥を見ていかれて――ただ、少し様子が違って見えました。探しものをされている方の足取りではなかったので、よく覚えているのです」


「……収蔵されている何かを確かめに来た、ということですかね」


 その問いには答えなかった。確証がない。ただ、あの日の足取りを思い出す。棚の前で立ち止まり、背表紙を一冊ずつ見て、何かがまだそこに残っているかのような目をしていた。


 イルマさんが窓の外から視線を戻す。


「……見せていただけますか。その棚を」


          ◇


 郷土資料室は閲覧室の奥にある。窓が一つで昼間でも薄暗く、小さな照明の光がぼんやりと棚を照らしている。空気が冷たく、古い紙とインクの匂いが濃い。


「旧工房の記録は、こちらの棚です。このあたりを見ておられましたね」


 壁面には、工房名と年代が背に記された綴じ込みが並ぶ。技術学院の古い年鑑、産業記録、伝記と様々な年代記。イルマさんが棚の前に立ち、指で背表紙をなぞるように見ていった。


「この本、少しだけ出てますね」


 一冊、わずかに棚から飛び出しているのがわかった。他の本はすべて背表紙に題名や所蔵区分が記されていたが、この一冊だけが違った。題名がない。蔵書番号だけが小さく書かれた革装の本。


 イルマさんが引き出して、革の表紙に触れた。古い革の手触りを確かめるように、親指が表紙の角を撫でる。


「製本の仕方。独特で荒いですね。手製の本のようです」


 開いた。


「これは――」


 名前がすべて塗り潰されていた。人名、地名、一族の名。残っているのは出来事と数字だけ。


「一行ずつ、丁寧に消してある」


 もう一ページ、めくってみる。


「これは怒りじゃないですね。なんというか……まるで、責務を果たすかのように――」


 私は何も言わなかった。


「名前を出さないでくれ、と言われることはよくあります。ただ、この本は違う。名前だけを後から消している。書いた後に、おそらく自らの手で」


 イルマさんが本に顔を近づけていた。塗り潰しの境目を見ている。


「名前を残せない理由。……あるいは、名前を差し出すほどの何か――」


 答えなかった。


「この人は――終わらせることを望んでいたのでしょうか」


「どうでしょう」


 ページをめくる音が止まる。イルマさんの視線が、塗り潰された名前の跡に留まった。


「……記事になると終わらなくなる。番頭さんが言っていたのは、そういうことなんでしょう」


 言葉を探すように視線が棚に移った。


「失ったわけじゃない。ただ、自らの決断で終えた――」


 窓の光が棚の端まで届かなくなっていた。


「その先に踏み込むのは、記者の領分を越えます」


 静かだった。私は小さく頷いた。


「……名前を彫る人と、名前のない本、か」


 手帳は閉じたままだった。


          ◇


 閉館。


 二階を巡回した。窓際の席には何も残っていない。紙片も、走り書きも、何も。


 郷土資料室に入る。あの棚の前に立ち、軽く押して年代記を棚に収めた。隣には工房の登録簿。届け出が受理されるまで、まだあの方の名前は載ったままだ。


 消された名前と、まだ残っている名前が、同じ並びに収まっていた。

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