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8月1日『見習い』

挿絵(By みてみん)

 昨晩、応接室の奥から踏み台を引っ張り出しておいた。木と埃の匂い。最後に使ったのがいつだったか思い出せないほど、隅に追いやられていた代物だ。


 閉館後には三つのことをした。カウンターの内側に踏み台を置いて高さを確かめ、別棟の宿直室の寝具を出し、窓を開けて風を通した。それから紹介状を、もう一度読み直す。


 『教会よりの派遣。夏季実地研修。十二歳』――アカデミーの長期休暇を利用した制度で、珍しいことではない。


 踏み台の天板に手を当てて高さを測り直したときに、指先が止まった。


 この高さの子供が、明日から毎日ここにいる。それだけのことを確認するのに、少しだけ時間がかかった。


              ◇


 八月一日の朝。今日も、遠くで鍛冶場の槌音がもう始まっていた。


 渡り廊下の向こうから、足音が近づいてきた。軽い。石畳をほとんど鳴らさない歩き方。


 本館の扉が開いて、黒い髪の少女が入ってくる。左右で色の異なる瞳。肩までの髪がまっすぐに揃っている。


「おはようございます」


 お辞儀の角度が整いすぎている。


「おはようございます。ここがカウンターです。まず分類票の書き方から覚えましょうか」


 チェザは踏み台の上に、両手を後ろに組んで立った。行儀の良い見習いの姿勢に見える。筆を渡すと、受け取る手つきが丁寧だった。教えるより先に知っているような――いや、賢い子にはよくあることだ。


              ◇


 土曜の朝。最初の来館者はマリアさんだった。ミーアに手を引かれて、いつもの時間だ。革鞄を提げた二人が入ってくる。革の古い匂いが扉のあたりに広がった。


 と、マリアさんの足が止まった。カウンターの中に立つ小さな影を見ている。


「あら」


 それだけだった。けれどいつもの「あら」より、少しだけ長い。


 マリアさんはそれ以上何も言わず、軽く会釈をしてから定位置に向かう。二人で向かい合って座り、いつもの本を開く。あの一音の余韻が、カウンターの向こう側まで漂ってくる。


 と、次に入口の扉が勢いよく開いた。


「あっ。新しい人だー!」


 マルクスの声が一階フロアに響く。リーネとゴルトが続いて入ってきて、三人がカウンターの前に並んだ。


「ねえ、お名前は?」リーネが身を乗り出す。


「チェザ。プセウドティから来たの」


「それって、水の都?」ゴルトが声を上げた。


「うん。そうだよ」


「……何歳?」


「十二だよ」


「何が得意なの?」マルクスが畳みかける。


 チェザが少し間を置いた。


「……本を読むこと、かなあ」


「えー。それって、ここの人みんなそうだよ!」


 リーネが吹き出し、ゴルトの口の端がかすかに上がった。チェザも一緒になって笑っている。踏み台の上で、少し背伸びをするようにして。


「ねえ、お昼ごはんは食べる?」リーネが急に真面目な顔になる。


「あ、まだわからない……」


「ちゃんと食べなきゃ、だからね」


 三人の声が揃った。初めて会った相手の食事を心配できるのだから、この子たちも大したものだ。


 三人が二階へ駆け上がっていった後、カウンター脇の書架の前でチェザが立ち止まっていた。手を伸ばし、手のひら全体で撫でるように背表紙に触れている。


 妙な仕草だと思った。けれど声はかけなかった。


              ◇


 午後になって染織工房のヨルクが来館した。夜学の教材に使う染色技術書の返却と、来週分の貸出。土曜日はいつも授業の準備をしに来る。


「二階へご案内します」


 チェザが申し出た。ヨルクは黙って頷き、チェザが返却された本を両腕に抱えて階段を上がっていく。本の重みで少し体が傾いでいた。


 戻ってきたヨルクが、カウンターに本を置きながら声を落とした。


「見習いさんかい? いい子が来たね。本の扱いが丁寧だ」


 チェザは二階でまだ棚を整理している。聞こえてはいない。


「ええ」とだけ返した。ヨルクの目は穏やかで、それ以上は何も訊かなかった。


              ◇


 ヨルクと入れ替わるように、ルッツが弟を連れて入ってきた。工房の油と金属の匂いが入口から流れてくる。弟は二度目の来館で、もう台帳に興味を示している。


「書く!」


「まだ早えよ」ルッツが止めかけたところで、チェザが小さな紙を一枚差し出した。


「こっち、練習してみる?」


 弟が紙を受け取って、カウンターの端で書き始めた。ペン先がぎこちなく紙を引っ掻く音がする。ルッツが横からのぞき込んで「ここに名前書きな。基本だからな」と言う。


 チェザがルッツを見上げた。


「教えるのうまいんだね」


 ルッツの耳が赤くなった。頭を掻いて視線を逸らす。


「……こいつの覚えが悪ぃから、つい口から出ちゃうだけで――」


「おにいちゃんだって最初書けなかったじゃん」


 弟の反撃にルッツが黙り、チェザが口元を手で隠した。笑っている。踏み台の上から見上げる目が、少しだけ細くなっていた。


              ◇


 閉館作業を始める。台帳を閉じ、窓の鍵を確かめ、外周の椅子を揃える。チェザが手伝おうとするので、「ごくろうさまです。もう休んで結構ですよ」と止めた。


 チェザは少し迷ってから、「おやすみなさい」と頭を下げた。


 別棟へと向かうその後ろ姿を、カウンターの横に立って見送った。渡り廊下の屋根の下を、小さな影が歩いていく。八月最初の空はまだ明るくて、夕暮れの光が石畳を橙色に染めていた。


 渡り廊下を曲がる手前で、風が通った。チェザの髪が揺れた瞬間、懐かしい匂いがした――ような気がした。


 最後の灯りを消す。


 椅子の横で、踏み台が小さな影を作っていた。明日もあの子は、あの踏み台に乗ってここに立つ。

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