8月2日『来週も』
開館前の巡回で、二階の閲覧席の椅子を並べ直した。
全ての椅子を机に収め、向きを揃え、座面の埃を払う。毎朝の手順。
終えて背を向けかけたとき、視界の端で何かが引っかかる。窓際の一脚――三番目の席。わたしが今収めたはずの椅子が、ほんの数寸、机から離れている。座面がこちらを向いて、誰かを待つように。
戻した。木が短く鳴る。
書架を巡る。棚の並びは昨日と同じ。背表紙の列に乱れはなく、埃の積もり方もいつも通り。ただ、奥の棚の前を通りかかったとき、少しだけ足の運びが鈍る。いや――何も変わっていない。
夏の朝の涼気がまだ漂っているはずの時間。けれど、この一角だけが、昨日の体温を残すかのように、周囲よりわずかに温い。
窓を開ける。朝の風が棚の間を抜けていく。紙と木の匂い。いつもの匂いに、潮気が混じる。一体どこから。
一階に降り、台帳を開く。昨日の閉館記録。来館者数と返却冊数が記してある。
欄外にごく薄い痕のようなものが走っている。鉛筆でもインクでもない。何かを書きかけて消したような凹みだけが。
放っておく。今日も扉を開ける。
◇
午前のうちに来館者が増えていく。
石板の床を足音が行き交い、椅子が引かれるたびに木の声が重なる。ページをめくる音が天井に昇り、梁に当たって散る。書架の間を走り抜け、叱られ、その叱り声すら笑いに変わっていく。開館前に感じていた違和感は、もうどこにもない。にぎわいが、塗りつぶしていく。
灰色の翼の老人がいつもの席に着いている。杖を壁に立てかけ、翼を丁寧に畳み、背もたれに深く腰を下ろして、その人物に目を向ける。小さく頷く。隣に長く座った者に向ける、あの親しみのある会釈。
三番席。
いつから座っているのだろう。入ってくるところを見かけたはずだ。扉の音も確かに聞こえた。「こんにちは」と声もかけた。しかし、返事の声を思い出せない。にぎわいに紛れたのだろうか。
窓から斜めに入る夏の日差しの中。棚から一冊を取り、静かに読んでいる後ろ姿。服の色も、ページをめくる間合いも、ごく自然にその場の呼吸に馴染んで見えた。前からずっとそこにいた人のように。
◇
午後の光が傾き始めた頃、その人物がカウンターにやってきた。
背表紙を確かめ、貸出票を引き出す。名前を訊き、台帳に書き込む。ペン先が紙を引っ掻く音。書き終えて目を落とすと、インクがもう乾ききっている。
窓際の席の影が伸び、埃の帯が橙に染まっていく。うたた寝を終えた老人が、杖の音を響かせながら階段を下りてくる。
閉館間際の静かな時間。
――確かに書いた。確かに名前を聞いた。しかし、どんな声だっただろう。ペンを置いた瞬間にはもう、思い出せなくなっていた。何を思い出せないのかすらも、薄れて消えていく。
◇
閉館。
扉が開き、閉まり、足音が遠ざかる。にぎわいが引いていく。まるで潮が退くように、満ちていた温さが少しずつ建物の外へと流れ出ていく。
「ありがとうございました」
いつもの閉館の挨拶に、足を止めてこちらを見る顔。口を開きかけ――何も言わず、また閉じる。小さく頷いてから、扉の向こうに消えていく。
◇
二階を巡回すると、三番席に一冊の本が置かれていた。
椅子の座面に手が触れる。――温かい。ついさっきまで誰かが座っていたような。木の繊維の奥に沁みる、長い時間をかけて温められた木の温さ。午後の日射しだけでは、こうはならない。
本には栞が挟まっていた。六章の途中。薄い革の栞だ。指の腹で表面をなぞると、革の繊維が毛羽立っているのが分かる。忘れ物だろうか。また来週もくるのだろう。そのまま棚に戻しておく。
カウンターに戻り、台帳を開く。欄外にごく薄い痕。鉛筆でもインクでもない。何かを書きかけて消したような凹みが――。
◇
台帳を閉じる。
本日の来館者は十二名。穏やかな日曜日だった。




