7月31日『水の巫女』
七月の最後の日。
閉館まで二時間。カウンターで月末の貸出台帳を締めていた。
インクの乾きが早い。七月の暑さが紙から水分を奪うのだろう、ペン先に引っかかりがある。総貸出数を数え終えた三列目の数字の上で、ペンが止まった。表の通りに馬車が止まる音だ。
扉が開いた。大きい。鴨居に額が触れるほどの巨体が、身をかがめながら入ってくる。額に短い二本の角。一見職人風の上着だが、入口の左右を一瞬で確認する目が職人のそれではなかった。護衛官だ。
その背中の後ろから、白い翼を畳んだ長身の人物が滑り込むように入ってきた。
「やあ。暑いね、今日は」
第三皇子。ペセ・アレグロ・フェルガース。今日はフードもなく、外套も付けていない。翼の先が夕方の光を受けて、カウンターの木目に白い影を落としている。
その時は、二人だけだと思った。
◇
執務室。
番の魔導書をテーブルに置いた。一ヶ月前と変わらない姿。青い光が微かに脈打ち、眠っているように見える。あの六月最後の日と同じだ。革の表紙は、触れると体温と同じくらいの温もりがある。
「変わりは?」
「……いえ。光の間隔が、少しだけ変わったかもしれません。……確信はありませんが」
「ふうん。まあ、焦ることはないさ。三百年待ったんだ。一ヶ月くらいは誤差だ」
ペセが革の表紙を撫でた。
ふと、手が止まり、目の色が変わる。軽口が消える。大事なことの前の、いつもの沈黙。
「さて。本題に入ろうか」
椅子の背もたれから身を起こした。
「今日は、連れがいてね」
◇
カウンターに戻ると、護衛官が入口脇に立っていた。腕を組み、壁のように。
その影に、フードを被った小さな人影がいる。護衛官の肩幅と背丈が、もう一人の存在を完全に隠していた。来館の時には気づかなかった。あの体格は、そのためだったのだろうか。
ペセが手招きする。小さな影が、護衛官の後ろから一歩踏み出した。夕方の光の中に出たその輪郭は、大人の腰ほどの高さしかない。
「紹介しよう。水の大神殿より預かった御方だ」
ペセの声に、いつもの軽さがなかった。
布が落ちた。
白い肌。子供の背丈。人形のような肌の首筋に、鰓の薄い線が走る。深緑の髪が、空気の中を漂う海藻のように、肩の上で揺れている。その立ち方には重さがない。床に影を落としていることが、不思議に思えるほどに。
あの『海の旅人』と同じ種族。だが、彼らに子供は存在しない。すべての個体が成人した姿で生まれてくる。だから、この姿――ありえない。
「水の巫女、チェザと申します」
声が少女のものではない。落ち着いた、大人の女性の声。感情を丁寧に包みながらも、底に芯がある。聞く者の呼吸を整えるような、不思議な響き。
「お目にかかれて光栄に存じます、司書殿」
ペンを持っていたはずの右手が、いつの間にか握り込んでいた。
――この声、この抑揚。
どこかで聞いている。ずっと前に。波の音がする場所。潮の匂いの中で。そんな記憶が、声の響きに引かれるように浮かびかけて、形になる前に沈んだ。
◇
ペセが説明する。
水の大神殿。十数名の巫女たちが治める、聖秘術教会の聖地のひとつ。海と陸の人間を橋渡しする存在として、数千年もの歴史を持つとされる。
「大司教猊下からの正式なご依頼でね。この街で起きている問題を、彼女に調べてもらいたいらしい」
チェザが言葉を継いだ。
「この街の地下深くに、太古の遺構がございます。現在では正確な場所も知られておらず、立ち入ることもできません。しかし、そこで起きている異変が、我々の居住地全体に影響を及ぼしているのです」
坑道の奥で見つかった、あの三百年前の人工空間が頭をよぎる。ダリアが報告した壁面の異常。瘴気の質の変化と、新種の晶獣の出現。点と点が、線になりかけている。
「……腐海との関連があるのでしょうか」
チェザの深い碧の目が、私を見た。
「その可能性は、否定できません」
◇
チェザの説明は簡潔で、無駄がなかった。言葉を選ぶ間の取り方だけが、見た目の年齢とかけ離れている。
彼らの種族の間に緊張が走ったのは、半年ほど前のことだという。海底の都市をつなぐ交通網が、断続的で不規則な地震に見舞われ始めた。度重なる調査の末、その震源と考えられたのがこの街の地下だった。
内陸のこの街から、なぜ海底にまで影響が及ぶのか。その理由は定かではなかったが、教会で最も古い資料を調べるうちに、この地にあったとされる古代の遺構の伝説が明らかになった。
海底都市を襲う揺れは、ここ数ヶ月でパターンが幾度も変化している。それは腐海拡大の時期とも重なっていた。
ペセが腕を組んだ。
「つまり、坑道の問題と海の問題が、根で繋がっている可能性がある、と」
チェザが頭を少し右に傾けて頷いた。
その仕草。次の言葉を選ぶ間。――知っている。この癖を。
「明日から、チェザ様にはこの図書館を拠点にしてもらう。産業史の記録、坑道地図、過去の地質調査。必要な資料がここには集まっているからね。異論はあるかね?」
「いえ。ございません」
「それは良かった。必要とあらば、こちらからも人材を派遣できる。いつでも言ってくれたまえ。……では、彼女の正体については、くれぐれも」
「……承知しております」
「君の事だ。心配はしていないが――彼女とはうまくやっていけそうかい?」
「はい。私にできることであれば、どのようなことでもお手伝いをさせていただきます」
ペセの目が、まだ私の顔を見ていた。何かを測る目。この男は、こういう微細な変化を拾う人間だ。
「君。……何か隠していることはないかい?」
「いえ。チェザ様とはお初にお目にかかりますので」
嘘ではない。チェザに会うのは初めてだ。
「そうか。……まあ、いいさ。よろしく頼むよ」
立ち上がるペセの表情には、怪訝な物が少しだけ混ざっていた。翼が椅子の背に引っかかり、白い羽毛がひとひら落ちた。拾わずに、そのまま歩いていく。
扉の前で振り返り、チェザではなく、私を見ていた。何か言いかけて、やめた。そのまま護衛官の肩を叩き、その背中に続いて夕暮れの向こうに消えていった。
◇
執務室。二人。白い羽根が一枚残っている。
沈黙が長かった。窓の外で七月最後の光が煙突の向こうで傾き、室内の空気を橙に染めている。机の上の番の魔導書が、ふたたび青い光を脈打たせる。まるで、番を求めるかのように。
「少し、驚かれましたか」
「……何に、でしょう」
チェザが、こちらを見ていた。白い人形のような顔に、読めない表情。小さな体が椅子に収まっている姿は、よそのお宅に預けられた子供のようにも見える。けれど目の奥にある面影は、子供のそれではない。
「先ほどから、お顔が変わっておいでです」
待っている。こちらから問うのを。けれど問いが形を成さない。
◇
チェザが立ち上がった。椅子から飛び降りる、と言った方が正しい。足が床に届いていなかった。
「この中では、目立たない姿の方がよろしいですよね」
白い肌に、じわりと赤みが差していく。
深緑の髪が黒く変わる。肩までの長さ。鰓の線、肌と指の継ぎ目が、滑らかに肌に馴染んで消えていく。背丈は変わらない。子供のまま、人の姿に。
目の色が変わった。左が青。右が緑。……首筋に、小さなほくろ。
チェザが、その顔でこちらを見上げている。十六年前――朝の光の中で見た瞳。波の音。振り返らなかった背中。潮の匂い、乾いた紙の匂いが、奥から滲んでくる。
「明日から、よろしくね。司書さん」
声が変わっていた。丁寧さが消えた子供の声に。私はカウンターの端に手を置いた。置かなければ、次の呼吸ができなかった。
「――フロウ」
名前。
自分の口から出た言葉を、自分の耳が拾った。窓の外で、七月最後の光が落ちていく。
チェザは何も言わない。ただ、笑った。




