7月30日『調子外れ』
教会の方角から、槌音が一つ余分に聞こえる。
木曜の朝。工房街のいつもの拍子に混じって、調子の外れた高い打音が断続的に鳴っている。補修工事だろうか。金属とは響きが違う。あれは石を割っている音だ。
カウンターの返却帳を繰りながら、耳だけがそちらを追っていた。
扉の音。
革の道具入れを提げた小柄な影。白髪交じりの茶色い毛並みと、丸い耳。その耳がくるりと回って、館内の空気を一巡、聴いた。
「やあ、司書さん。お久しぶりで。忘れ物を引き取りに来ました」
調律師のフィンクさんだ。二週間ぶり。
忘れ物の引き出しを開ける。低い方の音叉が、本の間に横たわっていた。沈黙していた金属は、指先に持ち上げると冷たい。
フィンクさんが受け取り、手のひらの上で転がすように撫でた。
「ごめんよ。待たせたね」
音叉を道具入れには戻さず、手に持ったまま、もう片方の手でカウンターを軽く叩いた。木が鳴る。低く、短い。
「うん。この机は変わってないね。よしよし」
自然と教会の話になった。壁の補修以来、低音がなかなか安定しなくて調律が難航しているのだという。
そこへ。扉が、勢いよく開いた。
◇
虹色の毛並みに石の粉が白く乗った長身。革のホルスターの重み。
「おう。あんた、聞きたいことがあるんだけどさ」
ザラだ。坑道の帰り道にでも寄ったのだろうか。石と汗の匂いが、フィンクさんの機械油の匂いを一瞬で上書きした。
カウンターの前に、全く異なる二人が並んだ。フィンクさんが半歩横にずれて、ザラを見上げる。頭一つ半ほどの身長差がある。
「教会の南壁の話なんだけど――」
「はて……。わたしも今、ちょうどその話を」
「え、あんたも?」
フィンクさんの丸い耳がぴんと立った。ザラは教会の壁に、ここ数日、異変を感じていたという。
「あの壁、何かおかしいんだ。首のあたりの毛が逆立つっていうか――こう、びりびりと」
首筋の虹色の毛並みを指で示した。
「壁越しに、ですか」
「壁の向こうから押してくる感じ。外にいるのに、中のものが漏れ出てきているような」
フィンクさんが音叉を取り出す。さっき引き出しから出したばかりの低い方。カウンターの角に当てて弾いた。
低い音が立つ。木に触れ、返却帳の紙をかすかに震わせて、消えた。
ザラの耳がぴくりと動いた。
「何やってんの?」
「音叉で机を叩くと、机が震えたでしょう。相性のいい組み合わせだけが、ああやって応えるんです」
「はあ」
「材質が変われば返る音が変わります。あなたの言うびりびりはきっと――」
「待った。音の話なんかしてないよ」
「壁の話ですよ」
「……なんで机を叩いたの?」
「机で見せた方が分かりやすいかと思いまして」
「よくわからないな。机と壁に、なにか関係があるのかい?」
フィンクさんの指が空を掻いた。
「お二人とも」
二人がこちらを見た。
「同じ壁について、別のことをおっしゃっているのだと思います。壁の向こう側から届くもののことを」
◇
フィンクさんが、ふいに顔を上げた。
「もう一度やらせてもらえますか。さっきの、机では伝わらなかった」
ザラが眉を上げる。「また?」
「今度はこちらで」
カウンターを出て、一階の石壁の前に三人で立った。フィンクさんが音叉を壁に当てる。
「ここに手を置いてもらえますか。音叉のすぐ横」
ザラは怪訝な顔をして、掌を壁に当てた。五本の指を広げ、石に押しつける。
フィンクさんが、音叉を弾いた。
低い音。石の面を伝って、広がる。
ザラの指先が、壁を掴むように曲がった。
「――これか」
「そうです。それが壁の返す音。石が受け取った振動を、手のひらに返している」
ザラが掌を見つめた。それからもう一度壁に当てる。「もう一回」
フィンクさんが弾く。ザラの耳が前に倒れた。首筋の毛が今度は逆立たない。
「……なるほど」
ザラが壁から手を離した。
◇
フィンクさんが音叉を柱に当てる。一階から上まで通る太い柱。壁より色が濃い。
ザラがその横に手を置くと、すぐに眉が寄った。
「短い。さっきの壁より、ずっと短くて硬い」
「硬い石は振動を短く弾き返す。壁は砂岩で柔らかく、それゆえ長く、ゆっくりと消える」
ザラが組んだ腕をほどいて、もう一度壁に手を当てた。今度は音叉なしで、ただ掌を押しつけて、黙っている。
「当たり前だけど、何も来ないね」
「ええ。音叉が弾けて、壁が返す」
ザラの手が壁の上で止まった。
「つまり、教会の南壁。どこかで、音が鳴ってるってことかい?」
壁から手を離し、掌を見て、ズボンの腿で拭いた。石の粉が白く残る。
「そういうことになります」
ザラが壁を軽く叩いた。こん、と短い音。
「あたしの拳じゃ鳴んない。……何がそんなに叩いてるんだろう」
「遠くにあるものほど、低い振動が強く響いてくる。あなたが拾ったのは、たぶん――もっと遠くて、大きくて、ずっと続いているもの――」
ザラの耳が一度だけ後ろに引かれた。
「……地面」
「地面?」
「あの坑道さ。岩が軋む音は、いつでも足の裏で聞いてる。あれがここまで伝わってきてるんだとしたら――まあ、あたしの勘だけどね」
フィンクさんが音叉を手の中でゆっくり回した。
「地面が弾けて壁に返す。……なるほど。この音叉の代わりを、地面がやっているということですか」
「さあね。あたしは調律師じゃないから、そこまでは」
「いえ、十分です。――そうだとすると、合点がいくことも多い。わたしが次に聴くべきなのは、壁ではなく床のほうかもしれない」
「床に耳当てるの?」
「ええ。盲点でした。……少しばかり可笑しな格好ですが」
ザラが鼻を鳴らした。笑ったのだと思う。
◇
フィンクさんが音叉を布で包み、道具入れにしまう。低い方を最後に、丁寧に。
「あんた、名前は」
「フィンクです」
「フィンクさんね。――あたし、あの前をしょっちゅう通るからさ。また何か感じたら寄るよ」
「ぜひ。わたしの耳では拾えないものを、あなたの体は拾えるようです」
「……それ、褒めてるのかい?」
「ええ」
ザラはこちらを一瞬見て、それから鼻を鳴らした。そして、手をひらひらとさせながら出て行った。石の粉がカウンターの角にうっすらと残った。
「あの人の手は正直だ。石が何を返しているか、理屈の前に分かっているようです」
フィンクさんはそれだけ言って、頭を下げて帰っていった。
扉が閉まる。二人分の足音が消えた図書館は、朝より少し広い。
カウンターを拭く。白い粉と、薄い機械油の跡。二つの匂いが布の上で一瞬だけ混じって、消えた。
教会の方角から聞こえる調子の外れた打音が、今は少しだけ違うものに聞こえた。




