7月29日『水を止めた日』
水の音がしない朝だった。
中庭に出ると、噴水の石盆が乾きかけている。底に薄く残った水が、七月の日差しに縁からじわじわと退いていく。北通りの水道管が錆びたのだという。あの古井戸の蓋石を直した後、管自体の腐食が見つかったらしい。午前中は断水。
今日は読書講座の予定だったが、アンネリーゼさんから別件があると昨日伝言があった。子供たちの声と水音が同時に消えた中庭は、三方を囲む壁に槌音だけが跳ね返って、いつもより広い。
その広い中庭の真ん中に、ハンナさんがいた。
石盆の中に膝まで入り、ブラシで底を磨いている。太い腕が動くたびに、苔を削る音がガリ、ガリと響く。ここにいない人と、ここにいる人。普段は開館前に帰る清掃員が、断水のおかげで朝の入れ違いを免れた格好だった。
「ああ、おはよう。今日は長引くね」
丸い顔を上げ、口の端からわずかに覗く牙ごと笑う。額に汗。エプロンは膝から下がすっかり濡れている。
「こういう日じゃないと底は磨けないからねえ。年に二、三回。『水が退いた後にこそ、川底の石は光る』。なんの本だったか」
その引用に覚えがなかった。ハンナさんは時々こういう言い回しをする。清掃員の控え室に古い暦本が置いてあって、欄外の格言を気に入って覚えるのだと、以前話してくれた。
「それは、どの暦本でしょう」
「さあ、覚えてないねえ。言葉だけ残ってる」
◇
カウンターに戻ったが、午前中は静かだった。講座がなく、水も止まっているからだろう。いつもなら一階の給湯器周りで談笑していく職人たちも、今日は素通りしていく。
窓を開けたまま、中庭の音を聞いていた。ハンナさんのブラシの音。それから素手に切り替わる音。指の腹が石を擦る、やわらかい音に変わった。
覗きに行くと、石盆の底だけ手つきが変わっていた。ブラシを脇に置き、指で水垢を剥がしている。
「上は硬い石だから構わないんだけどね。底は柔いんだ。強く擦ると削れる」
「石の種類まで分かるのですか」
「十年も触ってりゃ、手が覚えるよ」
ハンナさんの指が排水口の周りで止まった。
「ねえ。ほら、ここに貝殻が溜まってるの、知ってた?」
小さな欠片が数個、排水口の縁に引っかかっていた。水に洗われて角が丸くなった、白い破片。
「……いえ」
「どこから来るんだかねえ」
欠片はハンナさんの掌に乗せられて、石盆の縁に並べられた。五つ。小指の爪より小さい。
◇
昼前。
ハンナさんが私を呼んだ。いつもの太さはそのままだが、好奇心に弾んだ声。
「ちょっと来てごらん。こういうの、あんたのほうが詳しいんじゃないかい?」
石盆の底。苔と水垢を剥がした一画に、石に彫られた刻みが現れていた。非対称の繰り返し。文字のような、抽象的な絵のような。浅く、だが確かに人の手が刻んだ線。
――この形、どこかで。
「なんだいこれ、彫り物かい? こんなとこまで剥がしたことなかったからねえ」
これは、グスタフさんの拓本だ。北通りの古井戸の蓋石の下から出てきた、あの「水の印」。建市記録に記された四百年前の湧水の印と同じ紋様が、この噴水の底にもあった。
「……水の印、と呼ばれるものかと思います。この街が出来るよりも前に、水が湧いた場所に刻んだとされています」
「ここ、水が湧いてたのかい?」
「噴水になる前は、泉だったのかもしれませんね」
ハンナさんが指でもう一度、刻みをなぞった。石の凹凸を確かめるように、指の腹が溝に沿って動く。
「止まらないと見えないもんがあるんだね。――『流れの中にいる魚は、水を知らない』ってやつかい」
今度のは知っていた。諸都市に伝わる古い諺からの引用だ。
「ずいぶんぴったりですね」
「あたしも今思い出したんだよ。なにか――石に言われた気がしてさ」
ハンナさんは磨いた箇所の周囲をもう少し丁寧に拭いて、ブラシを鞄に仕舞った。
◇
昼過ぎ。水道が復旧した。
蛇口をひねると、最初に錆色の水がしばらく出て、やがて透明に変わる。噴水も細く水を吐き始めた。水が石盆を満たしていく。刻みの上を薄い水が流れ、ゆっくりと、あの形が沈んでいく。
「また隠れちゃうね」
ハンナさんが石盆の縁に座って、手を拭いていた。エプロンに水の跡が翼のように広がっている。
「ええ。でも今日、あることが分かりました」
「――また止まったら磨きに来るよ。あの石も、たまには顔を出したいだろうからね」
牙が見える笑い方。石盆から出て、靴に水が残ったまま、正面入口のほうへ歩いていった。普段は裏口から出入りしているはずだが、今日は表を通る。
通りかかったカウンターで一度だけ足を止め、棚のほうを見た。
「あんたの本の山も、今度ちゃんと拭いてやるからさ」
「いつもありがとうございます」
◇
閉館間際。
測量杖の石突きが床を叩く音。いつもより軽い。
ダリアさんがカウンターに一冊置いた。『装具弾の理論――弾薬に関する実験記録』。表紙の角が少しだけ丸くなっている。読み込まれた本の手触り。
別の本を一冊借りた。貸出台帳に名前を記す。数行上に別の名前がある。
「……彼の証言との照合をしたよ。ウーツにも伝えておいた」
杖が左手にある。それだけを見て、それ以上は見なかった。
「……まだわからないが、近々進展があるかもしれない。その時はまた、報告するよ」
「承知しました。お気をつけて」
石突きの音が遠ざかる。返却された本をカウンターの奥に仕舞った。
中庭に出た。噴水の音が戻った中庭は、朝よりも狭く、親しく感じられた。石盆の縁に貝殻の欠片が五つ。底はもう見えなかった。
流れの中にいる魚は、水を知らない。ハンナさんの声が、水の音に交じってまだ残っていた。




