7月28日『二冊の温度』
火曜日の朝は、蒸気管の低い唸りで始まる。
扉が開く気配があった。足音はほとんどしない。革の鞄が鳴る微かな金具の音だけが近づいてくる。いつもの時間だ。
「お待たせ」
ザルツさんが、それだけ言ってカウンターの前に立った。繁忙期で二週間ぶりの来館。深緑の肌に朝の光が当たり、頬の鱗が鈍く反射していた。
「今日は二冊、お願いします」
私はカウンターの奥から本を運ぶ。一冊は修復依頼棚に預かっていたもの、もう一冊は先週の地階整理で見つかったもの。並べると、二冊はひどく対照的だった。
一冊目。『刃物鍛冶の炉前覚え――温度と色の手引き』。
薄い冊子で、表紙が黒く焦げている。工房の火災で棚ごと被災したという。
二冊目。『水底の灯――鋳造街夜話』。
鋳造工の日常を綴った短編集だ。表紙に傷はなく、地階の資料室に長く眠っていた一冊だ。
ザルツさんは二冊に順に手を置いた。目より先に指が読む。縦長の瞳が一冊目の焦げた表紙で止まり、指がしばらく置かれて、目を閉じた。その指先が、ほんの一瞬、炉の残り火に似た色を帯びた気がした。
「こっちは焼けてる。けど、中は生きてるな」
二冊目に触れると、眉がかすかに動く。指先を鼻に近づけた。
「……これは蝋だな。鍛冶場の紙だ」
鉱物の脂の匂い。蝋を染み込ませた紙は火花にも水にも耐える。工房で使われた帳面や、炉の近くに置く記録によく用いられる。
ページをめくろうとして、動きが止まる。開かない。蝋同士が溶け合って貼りついている。
「……くっついてる」
地下まで伝わる炉の熱。その緩やかな温もりが蝋を少しずつ軟らかくし、ページを癒着させたのだろうか。一つは一瞬の火災で焼け、もう一つは何十年もかけて、壁越しの熱に溶かされた。どちらも、火に壊された本だった。
数秒の沈黙。焦げた本を手前に引き寄せ、蝋の本を脇に置く。
◇
炭化した綴じ糸を抜き、新しい糸を通す。焦げた糸が灰になって崩れるたびに、煤の匂いが微かに立つ。指先だけが動く。迷いのない手つきだ。
「閉じてたから助かったんだな、こいつは」
修復のためにページを開くと、その中身が私の目に入った。手書きの挿図に、炉の中の鉄が温度ごとに色分けされている。桜色、橙、藁色、白。その下に、こう記されていた。
「桜の色が橙に変わる、その一息のあいだに打て」
余白には本文とは違う筆跡の走り書き。若い字で「見てなかった。叱られた」。隣に別の手で「見える日は来る」。さらに細い字で「来た」とだけ。三人分の手が、同じ余白に棲んでいる。
「歴代の方の走り書きですね」
「……汚れじゃないなら残すか」
◇
糸の仕上げを乾かしている間に、蝋の本へと移る。
固着面に指の腹を当て、目を閉じる。
「蝋は熱で緩むが、文字も消してしまう」
鞄から取り出したヘラを固着面に当てる。ヘラと、それを掴む指が微かに光る。温めすぎず、足りなくもなく――一息のあいだに。
「……急がないことだ」
最初の一枚。剥がれると、短い散文が現れた。路地裏で、鋳型師の老人が弟子に語っているだけの場面。焦げた本の賑やかな走り書きとは対照的な、静かな声だった。
◇
午後。二冊の修復が行き来しはじめた。
焦げた本のページをめくると、余白にまた走り書きがあった。
「『今日の失敗。継ぎ目を急ぎすぎた』。その下に別の方の文字で――『ようやく』と」
「ふん。どんな仕事でも同じだな」
蝋の方の剥がしを進めていく。次々と物語が開かれていく。何気ない水路の暮らし、鋳造工の手の描写、夜明けの川面に映る街路の明かり。しかし、読んだ者の痕跡はどこにも見つからない。
「きれいなもんだ」
余白に汚れひとつないページを、指で撫でていく。焦げた本には何人もの手が書き込みを残していたのに、この本には誰の声も残っていなかった。
ザルツさんの目が、焦げた本の挿図に向かう。「鉄は端から色が変わる。境目を読む」。蝋の縁を指でなぞり、薄い箇所を探し当てるようになっていく。
焦げた本を手に取った。背の糸を指で確かめ、ヘラの先の蝋を薄く載せる。指先がまたわずかに光り、蝋が温められて繊維の隙間に沈んでいく。
「蝋は溶かすのにも固めるのにも使えるからな」
蝋の本の傷の一部が、焦げた本の薬になっていた。
◇
私は二冊をカウンターの奥に並べた。
「焼けた本と、溶けた本でしたね」
「面白い組み合わせだった。……傷を持って傷を制す、か」
「師匠の言葉ですか」
「……いや。今考えた」
帰り際、扉の前で首だけ振り返る。
「またな」
扉が閉じた後、カウンターの奥の二冊に触れる。今はまだ温かかった。




