7月27日『担架の片側』
担架は二人で持つ。
三日前、第三坑道の地下水脈交差、通称『水たまり』で瘴気が噴いた。前衛の連中が『赤壁』の近くで何かをやった直後だった。詳しくは知らない。救護兵に作戦は降りてこない。降りてくるのは、怪我人だけだ。
討伐隊のアヒムが倒れた。膝から先に落ちて、そのまま横に崩れた。目が開いたままだった。担架を急いで組み上げ、走る前に壁に触れた。――右の壁は中がぐずぐずに脆い。ぶつけたら崩れる。
「左寄りだ!」
相棒に叫んで、走った。百十二歩――採掘層まで百十二歩。
最初は怖くて数え始めた。数えている間は、背後の闇を考えなくて済む。それが、いつしか癖になった。先月のハーコンは七十三歩。先々月のゲオルクは四十七歩。数だけが、手を離れない。
あれから三日。エリクサーは投与したが、アヒムはまだ目を覚まさない。前衛は次の作戦を立てはじめている。
七月の図書館。石壁が一日分の熱を溜め込んで、坑道の冷たい湿気とは正反対の乾いた暑さ。
カウンターに手を置いた。何も感じない。この建物は静かだ――坑道の脆い壁とはまるで違う。担架の重さ、百十二歩。手のひらが静けさを感じた瞬間、三日前の震えが一瞬だけ戻ってきた。
図書館に来たのは、瘴気中毒の対処法を調べるためだ。――半分だけは。
残りの半分は、怒りの置き場を探しに来た。
◇
二階の医学書棚。瘴気中毒の項目は薄い冊子に半ページだけ。『解毒薬の処方』。それだけだ。
棚を睨んでいると、隣の通路に人影があった。灰色のフード。隣の産業技術の棚の前にしゃがみ込んでいる。
鼻が先に動いた。これは、鉱石の粉。古い革。汗。――増援のよそ者。
「救護兵か」
低い声だった。一語ずつ、正確に区切る話し方。
「……ええ」
犬歯が軋んだ。お前はどっちだ。壊す側か、拾う側か。
男が立ち上がり、さっきの棚から薄い冊子を抜いた。『坑道環境と人体』。背表紙に都市プラエスの紋章が刷られている。
「私もちょうど調べていた。――中毒は結果だ。原因は環境にある」
余計な世話だ。
壁を崩し、瘴気を噴かせ、怪我人を増やす。俺はそっちの方を「原因」と呼ぶ。
――言わなかった。代わりに冊子を受け取った。
◇
――瘴気が岩に染み込むと、岩の中身が脆くなる。脆くなった岩は震える。壊れかけの壁が、内側から小さく震え続けている。侵食度と振動強度の相関を示すグラフがある。等高線のように描かれた、振動の分布図も。
手が止まった。
「これ、俺わかりますよ」
口をついて出た。悔しかったのかもしれない。お前たちが知らないことを、俺は知っているんだと。
「崩れかけてる壁は、手にびりびりと来る。いつも、担架のルートを選ぶのに使ってます。……俺だけの癖で――」
フードの奥で、目が動いた。
「ふむ。やれるか。この見取図の上に、君の手が憶えていることを、できるだけ正確に描いてみてくれたまえ」
閲覧席で見取図を広げた。見覚えのある坑道に印をつけていく。
「――入口から三十歩くらいまでは硬くて、そこから先が震え始めて——この角を曲がった先が一番ひどい。だいたい八十歩目から――」
「……歩数でかね」
「ええ。いつも数えてます」
最後。アヒムが倒れた場所には、一番大きな印を打つ。
「ここに測量班のデータがある。壁の侵食度を数値にしたものだ。君の印は、そちらとも重なるはずだが――」
男が見取図に目を落とした。俺が印をつけた場所を、指がゆっくりなぞる。
「ここだ。先月末の調査で硬かった層が、今では脆くなっているようだ」
「……確かに。先月の崩落前にも同じ壁を触りました。あの時は硬かったし、特に何も感じなかった」
俺は、ただ仲間を運んだだけだ。壁に触ったのは担架のルートを選ぶためで、測量のつもりなんかなかった。
「もしかして、あの日って――」
「ああ。『赤壁』での作戦中だ。その振動が亀裂を伝って、上の坑道に瘴気を押し上げたのだろう。……俺の指示だ」
無意識に拳が握られた。犬歯が唇の裏に刺さる。
「あそこを突破しなければ深部への道は開かない。だが――崩した結果が、ここまで上がってくるとはな。予測が甘かった」
予測が甘かった、と言った。言い訳ではない。逃げてもいない。壊す側の人間が、壊した重さを背負ったままで、事実としてそう言った。
しかし――俺は知っていた。この坑道は何度も通った。壁が脆くなっていたことも、崩れそうな地盤のことも、手が覚えていた。もしそれを誰かに伝えていれば、判断の材料にはなったかもしれない。
『かもしれない』。
怒りが行き場を失っていた。膨らんだはずの胸の中が、空洞みたいに冷たかった。
◇
一階のカウンターに冊子を置いた。銀色がかった髪の司書が、背表紙を確かめる。
落ち着いた手つきで万年筆を差し出してくる。
「こちらにお名前をどうぞ」
書き慣れない字が、少し傾いた。その数行上に、別の名前。隣の欄には『装具弾の理論――弾薬に関する実験記録』と書名が並んでいる。
「ウーツだ」
扉のほうから声が聞こえた。
「……カイルです」
「君の印。測量班長のダリアに渡しておく。助けになるだろう」
三歩ほど歩いてから、振り返らずに言った。
「また異変を感じたなら、連絡をくれたまえ。もしかしたらだが、その能力――攻略の糸口になるかもしれない」
一歩ごとの間隔が狂わない、正確な足音が遠ざかる。手のひらに目を落とした。いつもと同じ手に見えた。
図書館を出る。冊子を持つ手に、紙だけじゃない重さを感じた。
担架は二人で持つ。俺は――片側だ。




