7月26日『もう一枚』
わたしの中に物がいくつかある。
左の隅。革の手袋が一双。右の親指が磨り減って、左の甲に乾いた何かの染みがついている。これの持ち主は月に一度は迎えに来る。取っ手を引く指に、仕事のあとの震えがいつもある。
中ほどには、鉛筆が三本。丸い芯、鋭い芯、折れた芯。削り方がそれぞれ違う。折れた鉛筆の持ち主が来たことはない。
底のほうに便箋が一枚。入った日は温かかった。指の温度が繊維に染みていて、わたしの底板まで届いた。
あれから一度だけ、取っ手に手がかかった。金具が温まり、開くのだと思った。けれどすぐさま手は離れて、金具だけが温かいまま残された。便箋は出ていかなかった。あれ以来、誰も来ない。
温かいものは、冷めるのに時間がかかる。便箋は少しずつ冷めていった。温まった時間のぶんだけかけて、ゆっくりと。今はもう、わたしの木と同じ温度になっている。
少しずつ角が丸くなっていく。何百もの手が触れたぶんだけ。それがわたしの年輪だ。物は帰っていくが、わたしはずっとここにいる。ここにいて次を待つ。
ある朝、わずかに重くなった。手袋の右と左の間に、小さな紙片が一枚挟まっている。
◇
手袋に迎えが来て、わたしは初めて紙片にじかに触れた。
冷たかった。
わたしの中では一晩で馴染む。夜の冷たさがやってきても、朝にはわたしと同じ温もりを持っている。しかし、同じ場所にずっといたはずのこの紙片だけが、木のように冷たい。
冷めるためには記憶が要る。この紙片の冷たさには、そういう前の時間がない。温かった思い出がない。
どれも、わたしに来るまでの道のりを体に残している。手袋には歩く振動が染みていたし、鉛筆には指の脂と汗染みがつく。この紙片にはどちらもない。振動も、誰かの手を経た確かさも。どこも経由しなかったかのように何の癖もない。旅路のない紙。出発地のない荷物。
その背には何かが刻まれている。弱い圧で。
刻んだ手の力が足りないのではなく、ただ、刻まれたもののほうが薄い。水たまりに映った文字のように、触れればそのまま崩れてしまいそうな。
◇
閉じているわたしは暗い。わずかに増えていく重さを、ただ感じている。正体はわからない。
しばらく経つと、もう一枚。今度は鉛筆と鉛筆の間。
さらに経った。今度は二枚。栞の裏と、底の角。紙片を迎えに来る手は、ない。
変わってゆくのは、紙片だけではない。紙片が増えるたび、折れた鉛筆が定位置から奥へ寄る。丸い芯と鋭い芯の差が、日ごとに縮まっていく。ただの物に還ろうとするように、持ち主の痕跡だけが消えていく。
わたしが開き、光が差す。久しぶりの光だ。指が中を探る。鉛筆を見つけ、摘まみ、そして引き抜く。
指の腹が紙片の角を踏む。縁を滑り、端をかすめ、紙片がわずかに動いたが、指はそれを追わない。
光は隅々にまで届いていた。その温かさだけが、紙片の表面を素通りしていく。
指は鉛筆だけを取り出して、わたしは再び閉じられる。光が消えた暗闇の中で、紙片だけがさっきと同じ冷たさで横たわっている。光がいたという、確かな痕跡すら残さずに。
預かって、返して、空いた場所がひとつ。わたしの中は軽くなっていかない。
◇
今朝また紙片が増えた。
外は静かだ。蒸気管の低い振動と、遠い槌音。天板の上を、誰かの掌が軽くなぞるように過ぎていく。帳簿がめくれる、かすかな紙ずれの音。穏やかな午後。
けれど、わたしの中は前よりもずっと重い。
隙間に紛れていた紙片が、いつの間にか主と客を入れ替えつつあった。わたしの中に残っているものは、もう便箋だけだ。便箋だけのはずだ。
便箋の裏に、ざらつきが生まれている。繊維の内側から、何かが押し上げたような。
弱い圧。水たまりに映った文字のような――。




