7月25日『基本だぞ』
弟の背中を押した。
「ここだ」
声が天井にぶつかって返る。相変わらずでっかい建物。弟が口を開けて上を見ている。煤のない作業着。まだ見習いにもなれない体は俺より一回り小さいけど、牙の覗き方だけは同じ。
「いいか、ここでは声を抑えろ。基本だぞ」
「……兄ちゃんのがうるさい」
「お、俺は慣れてるから平気なんだ」
カウンターの向こうから声が飛んできた。
「――お静かに」
「すんません!」
反射で出てしまった声に、弟がびくっと肩を縮める。振り返って小声にした。
「……ああいう時はすぐ謝れ。これも基本だぞ」
「基本多いんだね」
「図書館はそういう場所なんだ」
弟が入口を振り返る。扉の横にある靴の泥を落とす踏み石。弟はそのまま入ってきていた。落とさなきゃダメだぞ、と言いかけて――やっぱりやめた。
◇
一階の外周だ。ここはちょっとぐらいなら声を出せるし、茶も出る。図書館で一番気楽な場所。
掲示板の前で立ち止まった。
「ここに色んな知らせが貼ってあるんだ。読んでみろ――って読めないか。じゃあ俺が読むぞ。聞いてろよ」
兄の出番。
「えーと……『鍛冶ギルド、七月の――行事の――』あー、祭りの知らせだ。これはな」
「へえ」
「こっちは……『――届――の届け出』。ほら。届け出の知らせだ」
後半は当てずっぽう。勘の上に勘積み上げて、建物で言えば相当危うかったが、弟は気づいていない。よし。
掲示板にはもう一枚、小さな紙が貼ってあった。司書さんの手書き。読めるぞ。最初のは「始め」で、続きは、えっと――もう読めない。
「便利なんだ。困ったことはここに全部書いてある」
「兄ちゃん読めるの?」
「読めるとも。四割は読める」
「残りは?」
「勘。俺ぐらいになれば勘でなんとかなるんだ」
弟が感心した顔で頷いた。
◇
壁に備え付けられた給湯器で、お茶を淹れてやることにした。タダだからだ。
蒸気弁を回すが、出ない。反対に回しても――出ない。
すると、横から手が伸びてきて弁がかちりと動いた。司書さんだった。何も言わずカウンターへ戻っていく。
「熱いから気をつけるんだぞ」
両手で包むように受け取った。俺と同じ形の、腕の毛がまだ薄い、少し小さい手。
弟がグラスを持ったまま書架の方に歩き出したから、腕を掴んで止めた。
「飲み物は本の近くに持っていっちゃダメだ」
「なんで」
「紙は水に弱いんだ。蒸気に弱いし、火にも弱い。風にも弱い。日にも弱い」
「弱いの多すぎない?」
「そうだ。大事なんだ。だから気をつけるんだぞ」
「じゃあ、何で紙でなんか作るんだろう。石で作ればいいのに」
「石じゃ本にならないんだぞ。それに割れたり欠けたりするだろ?」
「……じゃあさ。なんで本なんか作るんだろ。ねえ、なんでかな?」
それは――答えが出なかった。なぜかいい質問に思えた。
◇
弟がカウンターの前に立った。
「ほら。司書さんに『お世話になっております』って言え。挨拶だぞ。挨拶」
「……わかった」
「声は小さくていいんだ。でもはっきりだ。はっきりだぞ。いいな」
司書さんを見上げる。口を開く。
「お世話になっております」
司書さんが瞬いた。
「こちらこそ。お兄さんにはいつもお世話になっています」
弟がまっすぐ俺を見た。耳が熱くなった。夏のせいかな。
「まあ。……普通のことだ」
声が小さかった。なんでだ。
◇
二階。空気が変わる。紙の匂いだけになる。
静かだ。工房ではこの静けさは昼休憩の合図だけど、ここでは違う。
「ここはえっと、閲覧室だ。机が六つあるんだぞ」
弟が指で数えた。「五つだよ?」
「……今日は。……たまたまだ」
弟は「ふうん」と言って納得した。
窓際の席。光の差し加減がよくて、工房の煙突が見える。俺のお気に入りの場所だ。
「ここから見ると街が違って見えるだろ」
「うん」
「小さく見えるだろ」
「うん」
弟はそういう時「うん」しか言わない。
弟が書架の背表紙を指でなぞっている。読めない字をなぞる手付きが丁寧だった。教えた覚えはないのに。
「これ全部、読んだ人いるのかな」
「司書さんは全部読んだ。……たぶん」
「たぶん?」
「確かめたわけじゃないけど、絶対たぶん読んでる」
◇
弟が窓の外を見ていた。煙突の煙がまっすぐ上がっている。
「兄ちゃんはその……字が読めるようになって、何か良いことあった?」
一週間前の帰りを思い出した。毎日通ってる場所。鍛冶ギルドの看板だ。
「看板が読めるようになったぞ。『ギルド』って書いてあった。でも看板が変わったわけじゃないんっすよ……じゃなくてえっと。同じ場所に同じ字で書いてあるだけで――」
弟の前なのに「すよ」が出た。図書館にいるとたまにこうなっちまう。
「と、とにかくだ。帰り道が違って見えた。そういう話だ」
弟が黙って牙を噛んでいた。考えている時の癖。俺と同じだ。
隣の工房の煙突から、煙が途切れるのが見えた。休憩の時間らしい。……もうそんなに時間が経ったのか。
◇
「――物語の本を借りたいんです。その、技術書じゃなくて」
カウンターで司書さんが一冊選んでくれた。短い話が十二個入っている。最初のは鍛冶職人が剣を打つ話だった。
一階外周のベンチに座って小声で読んだ。三行目でつっかえて、五行目で止まった。いったん戻って、もう一度。
……うーん。
カチリ。閲覧席の方でパズルのピースがはまる音がした。土曜になるといつも聞こえる音だ。
「兄ちゃん、止まってるよ」
「止まってんじゃない。考えてるんだ」
カウンターのほうから司書さんの声が届いた。読みを一つだけ。短く、それだけ。
続き。
職人が炉に火を入れる場面で、声に力が入ってしまった。金属を叩く音が文字の向こうから聞こえてくる。つっかえながら、でも止まらなかった。知っている音が、読めない字を補ってくれる。
最後の一行まできた。完成した剣を持ち上げる。昨日と同じ炉で打った剣が、今日は違って見えた。そこで話が終わった。
隣で弟が前のめりになっていた。俺と同じ姿勢で。
何で本なんか作るんだ、と聞いた弟は本から目を離さなかった。
◇
貸出台帳に名前を書く。昔は司書さんが代わりに書いてくれたけれど、今は自分の手で書ける。
弟がじっと見ていた。俺の手を。指の太さも、ペンの握り方も。
背中が少しだけ伸びる気がした。
「また、来ていいかな?」
扉の前。弟が口に手を当てて喋った。
「おう、毎週来りゃいい」
借りた本を弟に渡す。教えていないのに、大事そうに両手で受け取った。
足音が二つ、石畳に落ちた。大きい方と、小さい方。




