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7月24日『届いた日』

挿絵(By みてみん)

 金曜日の午後。


 窓の向こうの煙突から立つ煙が、まっすぐ空に溶けていく。風がないと煙は上にしか行けない。


 革鞄の擦れる音が聞こえた。


 配達員のアウグストさんだった。褐色の翼を鞄の紐の下に窮屈そうに畳んで、今日は中まで入ってきた。額に汗の筋。腕の日焼けが前より濃い。一ヶ月分の夏が、肌に焼きついている。


「残りはここのが二つ。一つは持ち帰ってきた」


 小包と封筒をカウンターに置いて、鞄を床に下ろす。肩を回し、翼の付け根を伸ばした。紐が食い込んでいたのだろう。日差しの下を歩いてきた体からは、革と埃の混じった外の匂いがする。


「少し座らせてくれ」


 椅子を出した。


           ◇


 一つ目。小包だ。消印はアポスタティ。


 紐を解くと、乾いた繊維が擦れる音がした。装丁の揃った写本が二冊。先月出した蔵書照会への回答だった。向こうの司書が挟んだ付箋に、「該当箇所に印あり」と二行。一ヶ月の旅の果てに届いた、たったそれだけの言葉。


 しかし、梱包は丁寧だった。角が潰れないよう厚紙で囲い、革装丁の背と腹にそれぞれ薄紙を挟み、乾燥剤まで入っている。重い本ほど傷みやすい。壊れやすいものほど手間をかけて包む。問いに応じることより、応じたものを無事に届けることのほうに、力が注がれていた。


「馬車で十日。向こうの図書館で検索と写本に二週間。帰りにまた十日」


 アウグストさんが椅子に座ったまま指を折っている。


「俺が先月預かったのが向こうに届いて、向こうからまた俺の鞄に戻ってくる。一ヶ月かけて、ひと回り」


 写本を両手で持ち上げた。重い。行きは照会書一枚だったものが、写本二冊になって帰ってきたのだ。


「旅ってのはそういうもんだ。行きより帰りのほうが荷が増える」


 受入票を書いて、棚に上げる。背表紙が並ぶ列のひとつに、一ヶ月かかった回答が収まった。


           ◇


 二つ目。薄い封筒。消印はテンタトレス。しかし、差出人の欄が空白だった。


「そいつには帰りの荷がなさそうだ」


 封を切る音が、さっきの小包より軽い。便箋一枚。宛名だけが整った筆跡で書かれている。「フリア王立図書館 司書殿」。


 蔵書目録を拝見する機会がありました――と始まっていた。歴史区分の分類法に独自の工夫が見られ、感銘を受けた、とも。末尾の添え書きに質問がひとつ。だが、名前と返送先がない。


 手が止まった。


 小包には差出人の名前があった。誰の手によるものかわかり、次の照会を送る宛先がある。開かれた往復の経路。


 こちらには帰り道がない。差出人が自分で閉じた経路。


「……知り合いかい?」


「いえ」


「差出人がない手紙ってのは、めずらしいな。返事がほしいから名前を書く。それが手紙ってもんだ」


「質問が書いてますね。分類の基準を教えてほしい、と」


「名前なしで質問だけか」


 少しの間。アウグストさんが翼の先で膝を叩いた。


「……返事が欲しいわけじゃないんだろうな。ただ訊きたかった。それだけのことだったんだろう」


 蔵書目録は業務のための道具にすぎない。それが知らない場所で開かれ、知らない人の手に届いて、知らない筆跡の手紙になった。仕事を見ていた目。その痕跡だけが、便箋の上にあった。


「返事を書くかい?」


「……書いておきましょう」


「宛先がないのに、か?」


「テンタトレスにも王立図書館があるはずです。送れば、届く可能性はあります」


 届くかどうかはわからない。片道の手紙に、こちらから帰り道を作る。


           ◇


 アウグストさんが鞄を肩にかけ直した。


「あ、そうそう。さっき言った、持ち帰ったやつなんだが――」


 鞄の底から封筒を一通、取り出した。宛先は工房街の奥。私の知らない名前だ。


「朝の配達で寄ったんだが、留守でな。隣も向いも留守。預けられなかった」


 アポスタティまでは馬車で十日。テンタトレスは二週間。そしてこの手紙の届け先は――歩いて行ける距離にある。


「――よくある話だ。明日また行く。届いた日が届いた日だ」


 間があった。


「届かなかった今日のことは、この鞄だけが知ってる。届かなかった手紙は鞄の底にいる。今夜も明日の朝も、届けるまでは」


 翼を一度広げてから畳み、その下に収めた。出発前の動作だ。と、玄関に向かいかけて、足が止まった。


 カウンターの隅に置いてある封筒に目が留まったらしい。


「――そいつも配達かい?」


「ええ。今日いらっしゃるはずの方に向けての」


「それは往復かい? それとも片道かい?」


「おそらく、片道です。ただし、届け先のほうがこちらに来ます」


 アウグストさんが一瞬、それと私を見比べてから、小さく息をついた。


「――俺にはできないな。俺は届けに行く側だから」


           ◇


 午後遅く。


 丸い窓のヘルメット。今日はひとりだった。


「お預かりしているものがあります」


 封筒を差し出した。金属の手袋で、ゆっくりと封を開ける。カウンターに手袋が触れて、小さな硬い音がした。でこぼこの線で描かれた花が一輪。器用な手では描けない花だった。


 空の封筒をカウンターに置いて、ヘルメットが傾いた。


 長い間、掌の上の紙を見つめている。ヘルメットの中に泡が一つ、大きく膨らんで――割れなかった。


           ◇


 閉館。


 カウンターの上。写本の受入票、返事を待つ便箋、そして――空の封筒。

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