7月23日『五倍の話』
木曜の午前が、槌音に揺れている。夏の光が資料室の窓硝子を白く灼いて、陽に温められた紙の匂いが、閲覧席の間を漂っていた。
返却本が一冊、差し出された。『未明の冒険譚』。
「お待たせしてしまって」
長い耳の青年――冒険作家のヨハンが、少し申し訳なさそうに頭を下げた。以前から閲覧席を使っている聞き書きの青年で、赤い瞳の奥にいつも何かを見定めようとする意志が光る。
ヨハンの隣には、見慣れない男が立っていた。
◇
「こちら、今日お話を聞かせていただく方で――ノヴェルトさんです」
ヨハンが紹介すると、男は太い声で「よーう」とだけ言った。それからカウンターの上に肘をつき、私の方を見て「ここぁ涼しいなー。外は地獄だぜ」と笑った。涼みに来たような顔だった。
首回りの鬣が半ばまで白くなりかけた、中年の男だ。右耳の先端が欠けている。刃で切ったような直線ではなく、引き裂かれたように不揃いな縁だった。
鞄を椅子に座るなり膝の上に乗せる。その上に置いた手の爪が深く切り込んである。あの体格にしては不自然なほどに短く。
「んで? どこから聞きたい? 全部話すってなると、三日かかっちまう」
「では、最も印象に残っている冒険を――」
「がっはっは。よし! じゃあまず腹ぁ減ってないことを確認しろ。長くなる!」
ノヴェルトの声は、参考資料室にはいささか大きすぎた。
私はカウンターの奥で返却本を棚に戻しながら、二人のやりとりを聞いていた。
――古い砦の地下に、五人で潜った話。
「――みんな凄腕だったが、砦の番人に見つかっちまった。こっちの三倍はある石像兵の化け物よ」
ヨハンがメモを取りながら顔を上げる。
「三倍――どのくらいの大きさですか、具体的には?」
「そうさな……。天井に頭が届いてたから、四倍はあったかもしれん。いや待て、あの砦の天井はそんなに高くないか――まあとにかくデカかったわけよ。テメエの身の丈ほどのデケえ剣を担いでてな。そいつを振り回してくるのよ。……ありゃあすごかったぜ」
訊かれるたびに話が膨らみ、膨らんだ先で辻褄が合わなくなっても気にしない。それはヨハンの方も同じだ。長い耳が興奮気味に揺れ、ペンが紙を走る音が閲覧室に小さく響いていた。
「地下ってなあ時間の感覚がおかしくなる。天井は低いし埃っぽいし、同じ道を何度も回った気がするんだ。壁に印をつけても、次に見たら消えてたりな。――あ。そういや、近くに酒場があってよ。で、給仕の姉ちゃんがあいつの手帳の上に酒こぼしちまって、地図のメモ書きが全部――」
「……砦の話を」
「おう。どこまで話したっけ?」
「壁の印が消える、と」
「そうそう、その話だ。仲間も往生して――」
ノヴェルトは嬉しそうに頷いた。語りに燃料が投下されるたび、声量が一段上がる。「仲間」という言葉が、話の端々に挟まれているが、名前は一度も出ない。
男の手元が目に入った。五人で潜ったと語りながら、男が無意識に折った指は二本だった。自分でもそれに気づいたのか、拳を握り直した。
――砦の地下。同じ道を何度も回った。……探したのだ。暗い道の先にいるはずの誰かを。無意識に折った指の、その相手を。
◇
――南の砂漠の話。
「三日三晩、水なしで歩いたのよ。砂嵐で天も地もひっくり返ってな」
蜃気楼の都市にたどり着いたという。ヨハンが身を乗り出す。
「その都市、何があったんですか」
「天まで届くようなでっかい門があって、その先に塔があったのよ。旗が翻ってもいたな。あー……赤と黄色の、見た事もない旗だったなあ……ありゃあ」
ノヴェルトの声が弾む。即興の都市が、言葉のたびに建造されていく。
「塔ん中に階段があってな。登っても登っても頂上に着かんのよ。仕舞にヘコたれて戻ろうとしたら、今度は下に着かなくなる。幻の塔ってなあそういう場所よ」
「――終わりのない階段」
ヨハンが呟くように繰り返し、メモの手が速くなった。長い耳がぴんと立って、声を余さず拾おうとしている。
「まあ蜃気楼だからよ。実際には入れんのだが――」
ノヴェルトは自分で語った幻の塔を、あっさり消した。
「まあとにかくだ。三日歩いてようやっとたどり着けたのが蜃気楼の塔だったわけよ。砂漠ってなあ厳しい場所で――」
「砂漠もお仲間と?」
「――おう、いたよ。もちろん仲間も一緒よ。……俺以外に三人はいたな」
一拍、遅れた。砦の話では「みんな」が最初に出た。砂漠では、訊かれてから足した。
と、ノヴェルトが不意にメモを見た。
「書くのか」
「ええ。声のままに」
その間に、男の指が鞄の留め具を撫でた。一度だけ。
「……半日ぐらいだったかもしれん」
一拍の沈黙。鬣が寝た。興奮で逆立っていた首回りの毛が、すとんと落ちて、男の首が一回り細く見えた。
◇
すぐに声量が戻った。戻りすぎた、と言ったほうがいい。
「そうだ! 峠で野盗に囲まれた事があるぞ。これが一番すごい。三十人が相手。今度は誰もいないんだ。たった一人、荷物を背負ったままで――」
ノヴェルトの語りに、さっきまでとは違う調子が乗った。声を張り、身振りを大きくし、ここぞという箇所で間を取る。月が綺麗でなあ、と突然景色の話になり、それから思い出したように右耳の欠けた先端を指して見せた。
「その時にやられたのがこれよ。まあ、代わりに全員転がしたがな。がっはっは」
口上のような、見せ方だった。しかし、あの傷の引っ搔いたような欠け方。……刃物の傷ではない。
「片手でですか?」
ヨハンが真顔で訊いた。
「おうとも。すごいだろう。自分でもそう思うぜ」
ノヴェルトが笑った。大きな笑い声が参考資料室の天井に跳ね返る。目は笑っている。声も笑っている。だが――首回りの毛だけが、さっき砂漠の話で落ちたまま、寝ているのが見えた。
私は階段に足をかけた。振り返りはしなかったが、次の一段を踏むのが少しだけ遅れた。あの笑い声――何かが混じっていた。聞き慣れた何かが。
◇
階段を降りてカウンターに戻ると、ちょうどヨハンが原稿をまとめているところだった。ノヴェルトは席を立ち、鞄を肩にかけている。
「いやあ、喋った喋った。喉が渇いちまったなあ」
軽い調子で伸びをしてから、扉に向かった。
「――あの砂漠の話な」
一拍。
「本当は一人だったんだ。砦からあとは――」
それだけ言って、ノヴェルトは扉を開けた。夏の光が一瞬、参考資料室に差し込んで、男の影が伸びて、消えた。
ヨハンが原稿の束を鞄にしまった。
「面白い方でした」
カウンター越しに、ヨハンが言った。私は小さく頷いた。
「声の大きな方でしたね」
ヨハンたちが帰った後の資料室は、午前とは別の静けさに満ちていた。
ノヴェルトが座っていた椅子の背もたれに、小さく爪の跡がある。話している間ずっと、背もたれにあの短い爪を無意識に立てていたのだろう。浅い線に交じり、一箇所だけ深い傷痕が走る。
砦の地下、砂漠、峠。三つの話で「仲間」は何度も現れた。
――だが名前は、一度も。




