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7月22日『茜の日』

挿絵(By みてみん)

 今日は、茜の日(ルベリア)だ。


 息を吸うと焼けた金属の味がした。大暑の朝は空気ごと鍛冶場の中にいるようで、煙突の上で陽炎がとろとろと揺れている。遠くで槌音が三つ。あの拍子、ガッセんとこの工房だな。


 あたしの工房は南通りの角だ。五十年、茜を染めてきた。


 茜の赤は一度では出ない。染めて、媒染して、乾かす――それでようやっと一回。十二回繰り返して、ようやく繊維の底まで色が届く。染液は煮立てちゃいけないし、冷めててもいけない。暑い日の鍋は、ちょうどいい温度がずっと続く。だから大暑の赤が一番深い。


 あたしの師匠は口でしか教えない人だった。手を見ろ、色を見ろ、鍋の音を聞け。それだけ。師匠の工房は鍛冶場のすぐ隣にあって、窓を開けると白い粉が入ってくるからいつも閉め切っていたものだ。――いや。窓は閉めていたけど、灰汁の(かめ)には蓋がなかった気がする。暗い工房だった。


 でも一度だけ言ったことがある。――俺も師匠の受け売りだ、と。


 五十年、ずっと気になっていた配合がある。手だけじゃどうしても辿り着けなかったものが、一つだけ。


 あたしは、図書館の入口で袖に付いた白い粉を払った。――また付いてる。鍛冶通りを歩くといつもこれだが、今日は特にだ。


 カウンターの若い司書に要件を伝えた。


「染料の技法や歴史に関する本を探してるんだ。七十年以上前のもので――」


「産業史の文献でしたら、三階の外周棚のほうにあるかもしれません」


 それだけ。あたしも、それで十分だった。


                ◇


 階段に向かう途中で、見知った背中を見つけた。


「おや、ファーデンさんじゃないか。珍しいところで」


「フロリンダさん。今日は夜学の準備日でしてね。もう慣れましたよ」


 ファーデン工房のヨルク。工房街の南通りと東通り。歩いて五分の距離に何十年もいたのに、図書館で顔を合わせたのは初めてだった。


 ヨルクの向かいで、小さいのが四本の腕を忙しく動かしている。二本で本を押さえ、一本でメモを走らせ、残りの一本で布の切れ端を光に透かしている。


「あっ、ルエルです! 親方の弟子でして――おばさん、手が赤い!」


 挨拶と驚きの境目がない子だ。


「五十年洗っても取れないよ。――取る気もないけどね」


 複眼の金が、少し深くなる。


「ご、五十……」


 それから布の切れ端を差し出してきた。


「これです。茜で染めたいんですけど、色が薄くて。染めて、媒染して、乾かして――」


 指で触れた。織りは悪くない。が、これは一回分の色だな。


「……それは後で話すよ。まず、あたしの用事を済ませたいんだ」


 三人で階段を上る。テンポの違う靴音が三つ。あたしの硬い革底、ヨルクのゆったりした歩幅、ルエルの駆け足が一つに重なった。


                ◇


 三階では別々の場所だった。


 密に並んだ書架の間を、細い灯りが照らしている。古い紙と革の匂いが、一階とは比べものにならないほど濃い。外の熱はここにも届いていて、背表紙に触れる指先がわずかに湿っぽい。


 背表紙の文字を追う。おそらく『染匠録』のはずだが、そんな名前の本はどこにもなかった。代わりに手に取ったのが『フリア染料植物誌』。茜の項を指でたどる。


 根は煮立てるな。色が死ぬ。――師匠の言葉を思い出す。回を重ねるたびに色素が奥に入る――知っている。あたしの手がそう覚えている。


 媒染の章を開く。「配合は各工房の伝に拠る」。たったそれだけ。


「やっぱりだ。ここから先は書いてない。……工房の命だからねえ」


 落胆はしない。そういうものだ。職人の核心をやすやすと明かす人間はいない。


 ヨルクは夜学の資料を探していたそうだが、別の棚から一冊を持ってきた。職人組合の議事録。繊維部会の記録のあるページを開いて――。


「フロリンダさん、この名前――」


 これは確か、三代前の師匠の名前だ。「この街で最も深い赤を染める匠」。


 会ったことのない人が、紙の上で近づいてくる。


「……知らなかったな。こんなふうに書かれてたなんて」


 しかし、どうやって染めたかは一行もない。結果だけで手順は消えている。


 三冊目はルエルだ。四本の腕で上段と下段を同時に見ながら引き抜いてきたのは、鉱物の図鑑だった。


「これ――関係ないかもしれないんですけど……図版がきれいだったので」


 霜石の項目。白い結晶。鍛冶の炉に入れる融剤の一つ。街の東の採掘場に産する、鍛冶師たちがよく「白粉」と呼んで、どこの工房にも袋で積んであるあの石のことだ。


 その性質の欄に、ルエルが四本の腕のうちの一本で指を置いた。


「ここに『染料を留める性質を持つ』って。……これって、色を抜けなくするってことですかね」


 指が止まった。


 霜石。あの白い粉。南通りのあたしの工房の隅にも転がっている、あの石。


「……師匠の工房は、鍛冶場の隣だったんだ」


 ヨルクが顔を上げ、ルエルが首を傾げた。


「白い粉だよ。いつも降ってた。窓を閉めきってても、どこからか入ってくるって。――でも蓋をしてなかった」


 三冊の本がテーブルの上にある。植物誌と、議事録と、鉱物図鑑。


「この石の粉が、灰汁に混ざってたってことかね」


 師匠も知らなかったんだ。鍛冶場の隣にいたから、勝手に混ざっていた。


 断言はできない。でも――「この街で最も深い赤」の輪郭に、初めて触れた気がした。この街が生んだ赤。


 ヨルクが議事録の表紙をそっと撫でた。


「……糸は一本だけでは何にもならない、か」


 ルエルが布の切れ端を出した。


「あたしも染めてみます!」


「一回じゃ表面に乗るだけだよ。繰り返すたびに奥に入る。十二回はやらなきゃ」


「じゅう、に、かい……」


 触角がゆっくり垂れる。でもすぐ立ち直った。


「でも、一回目がなかったら十二回目もないですよね」


 黙った。この子は染めの話をしている。でもこの言葉が、あたしにも刺さっている。


「……そうだね。あたしも明日から一回目だ」


 四本の腕が止まっていた。触角が静かに揺れている。


                ◇


 三冊を棚に戻した。借りるものはない。


 一階に降りると、西日がカウンターのあたりを赤く染めていた。


「結果、聞きに行っていいですか!」


「あたしの工房は南通りの角だよ。朝早いけどね」


 言ってから少し驚いた。弟子を取ったことのないあたしの言葉とは思えない。


 大暑の夕暮れ。外に出ると、空気がまだ厚い。鞄の中は空だ。


 袖にまた白い粉が付いていた。今度は、払わなかった。

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