表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
112/122

7月21日『預かりもの』

挿絵(By みてみん)

 扉が開いた時、最初に目に入ったのは鞄だった。


 使い込まれた革の旅鞄。両手で抱えるように持った老女の肩が、鞄の重さで少し傾いでいる。


「オルテンシア戯曲集を、探しておりまして」


 旅芸人の一座だという。一座がこの街を巡業するたび、この図書館からオルテンシア戯曲集を借りていた。それぞれ違う巻。

 

「父が旗揚げして、夫が継いで、息子は――出ていきました」


 鞄から取り出されたのは小さな栞だった。革の表面に細い金属線が走り、縁に薄い刻線が等間隔に刻まれている。


「巡業先で親しくなった魔道具士を名乗る御方に仕立てていただきまして。この栞を本の上に置くと、読んだ手の記憶が見えるのだそうです。……けれど、どの巻に使えばよいのか」


 受け取った指先に、冷たい金属が触れた。この刻線の手癖を知っている。金具の留め方。線の間隔。刃の角度。


 確認はしなかった。確認を、避けた。けれど手の中の金属が、もう答えを出している。


           ◇


 どの巻を、誰が借りていたのか。


 カウンター脇に置いてある、ザルツさんのリストのことを思い出した。


 先週、蔵書の状態を見て回ったあと、次回のためにと書き残していった修復待ちのチェックリストだ。開いて確認すると、見つけた。オルテンシア戯曲集から三冊だけ並んでいる。


 第三巻、第二十二巻、第二十九巻。六十二巻あるうち、三冊だけ背が痩せている。余白にザルツさんの字で一行――「特定の借り手による反復貸出の痕跡あり」。


 二階の文芸棚に向かう。


 引き抜くと隣の本がわずかに傾いだ。静かな二階にその音だけが落ちる。どの巻も背表紙が擦り減り、ページの角が丸い。乾いた紙の匂いが指先から立つ。


 老女の指が第三巻『声と影』の表紙に触れ、一拍、止まる。


「ああ……。お父さまの巻は、これでしたか」


           ◇


 第二十九巻『二人の王子』。


 栞を置くと、その刻線が淡く光る。本と栞の間に像が滲み、カウンターの午後の光が一段薄くなった。


 ――若い手が見えた。


 ページを繰る速度が速い。第三幕――城門の前で弟が兄に背を向ける場面。指が台詞の行で止まり、唇がかすかに動く。声は届かない。口の中で台詞を転がしているのだろうか。


 だが、指がすぐ前のページに戻った。第二幕――兄弟が並んで歩いている場面。別れの台詞を読んでは、一緒にいるページへと引き返す。何度も。


 やがて本を閉じた。席を立つ。振り返らずに。


 老女の唇がわずかに動く。名前を呼びかけたのかもしれない。


 栞を挟まなかった。この手は本を閉じたのではなく、手放したのだろう。


 像が褪せ、手が消えた。


 老女の手が止まった。栞を持ったまま、次の本に移さない。


 私たちの間に、誰の手にも触れなかった時間が横たわっていた。


           ◇


 第二十二巻『冬の稽古場』。


 ――大きな手が見えた。


 ページを一定の間隔で繰っていく。正確で、迷いがない。第一幕――冬の稽古場。老いた師が若い役者と向き合う場面で、指が止まった。ただ師が一歩近づき、役者の肩に手を置くだけの場面。


 私はその手を見ていた。角ばった指の節。ページを押さえる力が均一で、几帳面な人なのだろう。同じ場面を何度も読み直している。師が黙って肩に触れる、あの場面だけを。


「……この人は」


 老女が声を漏らした。


「舞台では、厳しい人でした。でも――この場面だけは、いつも」


 そこで言葉が止まった。


           ◇


 第三巻『声と影』。像が最も深くなった。


 ――節くれだった指だ。


 ページの開き方が荒いのではない――手慣れているのだ。何十、何百と開いた手つき。指が覚えている本。第二幕――演出家が舞台袖に立っている。幕の向こうから役者の声と客席のざわめき。演出家は光を浴びない。声と影の、闇に紛れる裏方の場所。


 この手はページの上で遊んでいた。先を読み、戻り、好きな場面で立ち止まっては、また進む。さっきの几帳面な手とも、行き場を失った若い手とも違う。本を読んでいるのではない。本と対話しているように思えた。


「お父さまは、こういう方だったそうです」


 老女の声が静かだった。


「夫がよく言っていました。舞台の上では誰より自由だった、と」


 その手が本を閉じるのが見える。迷いなく棚に返す仕草が穏やかで、次に借りる日をもう決めているようだった。


 像が消えた。


 蒸気管の低い振動。カウンターの木の匂い。午後の光が戻ってくる。


           ◇


 老女は三冊を見つめていた。


「三人とも、違う芝居を読んでいたのですね」


 袖に立つ演出家。師と弟子が沈黙の中で向き合う稽古場。別々の道を行く兄弟。


「……でも、栞は一つ」


 老女が革の表面を指先でなぞった。


「これは父の代から使っていた栞なんです。夫に渡り、息子に渡り——あの魔道具士の方が、そこに手を加えてくださって」


 老女が三冊をこちらに返した。


「いずれまた、お借りすることがあるかもしれません。けれど……今は、このまま棚にお戻しくださいますか。——次にこの本を抜く誰かのために」


 扉が閉まった。


 カウンターの隅にザルツさんのリストが残っている。修復師は本の傷みを読み、魔道具士は栞の記憶を読んだ。いなくても、それぞれの手仕事がここにある。


 芝居好きの魔道具士を、私は一人しか知らない。


 あの人は、まだ旅を続けているのだろうか。


 オルテンシア戯曲集。並んだ背表紙の列に、三つの世代の跡が薄く残っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ