7月20日『似てない絵』
祝日の朝。図書館が少し広い。来館者がいつもの半分ほどだからだ。
窓を開けると、鍛冶場の槌音が聞こえなかった。風が一階を通り抜け、閲覧席の紙が一斉にめくれる。しかし、慌てて押さえる人もいない。
扉が開いた。
丸い窓のヘルメット。花の絵の潜水服と分厚い手袋。これは――『花柄さん』の方だ。
いつもは、もう一人の方と一緒にいらっしゃる。一人で来館されたのは、初めてのことだった。
おもむろにカウンターに防水紙を広げ、鞄から鉛筆を取り出す。金属の指が鉛筆を摘むとき、カチ、と小さく鳴った。
何かを描き始める。丸い窓、ヘルメットの曲線、潜水服の継ぎ目、手袋の関節。
しばらく見つめて、首を大きく振った。紙を裏返して、もう一枚を同じように描きはじめる。丸い窓、ヘルメット、潜水服。――完成した二枚を並べて、また首を振る。
どちらの絵も、まったく同じものに見える。
◇
一階の閲覧席の隅では、別の相談が進んでいた。
大柄な女性が椅子に座っている。ヴィオさんだ。膝の上には、竹のような木で作られた長い管を横たえている。以前手入れをしていたトアラという笛。今度は継ぎ目の木が痩せ、嵌合が緩んできているらしい。
向かいにはセラ。閲覧席の椅子に足がぎりぎり届く小柄な体を傾けて、管に顔を寄せている。
「十年も持ったのは、この木がとても強いからだと思います」
「強いっていうか、頑固なのよ。あたしに似てね――」
「……継ぎ手か。なら、銀がいいかもしれません。錆びにも強いですし、わたしの得意分野です」
セラの指が管に触れた。目を瞑って、太さの変化を指の腹で読んでいる。
◇
昼過ぎに、賑やかな一団がやって来た。
工房街の若い衆が四人。いつものように先頭を歩くルッツが、カウンターで唸る『花柄さん』の姿に足を止めた。
二枚の絵を見下ろして、首を傾げる。
「なんすかこれ。……同じ絵が二枚?」
花柄さんが首を振る。両手を広げて、何かを伝えようとしている。
「……おそらくですが。いつも一緒にいらっしゃるお方と同じ服装なので、描き分けに困っていらっしゃるのではないかと」
私が伝えた。
「なるほど。じゃあ背丈で分けりゃいい。簡単じゃないっすか?」
ルッツが鉛筆を取り上げた。防水紙の端に、勢いよく描き始める。
棒人間が一本、立ち上がった。丸い頭に丸い胴。手足は直線四本。
後ろから覗き込んだのは、ベルトだ。鋳造見習いの少年で、以前よりずいぶん背が伸びている。
「ほら。こっちが大きいほうで――」
「……ルッツ。そいつは、何だ? ヒトか?」
ベルトが、静かに言った。
「人に決まってるだろ。ほら、ちゃんと大きさの違い出てるだろ?」
「……大きい棒と、小さい棒っす」ハンスがぼそりと足した。
「うるせえなあ。じゃあベルト、お前が描け」
ベルトが鉛筆を受け取った。太い指が慎重に握り直す。初めての手紙を書いたあの頃より、ずいぶん逞しくなっている。
丁寧にヘルメットの丸を描いていく。丁寧に、丁寧に。
「どうだい」
「……おい。それ鍋だろ」
「は? どう見てもヘルメットだろ」
どう見ても鍋の蓋だ。
「ハンス」
ルッツが振り返る。
「お前、鍛冶祭で図案描いてただろ」
「あれは図案っすよ。絵とは違うっす」
「似たようなもんだ」
「全然違うっすよ」
しかし鉛筆を渡されると、黙って受け取った。描く前に、取り出した定規で長さを測りだした。そして、ただ黙々と描く。直線、曲線、正確な角度。潜水服の継ぎ目が整然と並ぶ。まるで職人が描いた設計図のようだった。
「……なんか、発注書みたいだな。寸法まで入ってるんじゃないか?」
「入ってないっすよ。……たぶん」
「いや、褒めてんだよ」
「……褒められてる気がしないっす」
花柄さんのヘルメットの中で、泡が細かく揺れていた。笑っているのだろうか。
◇
三人の挑戦を、画帳を抱えたまま少し遠巻きに眺めていたのが、エミールだった。
絵を順に見ている。棒人間。鍋の蓋。設計図。
「……三枚とも、外側だけだ」
独り言のように呟いた。
エミールの視線が、花柄さんの胸元で止まった。肩から脇腹にかけて咲き乱れる色とりどりの花。防水の油塗料で丁寧に描かれたその模様。この方の姿を唯一のものにしているこれが、棒人間にも、鍋の蓋にも、設計図にも、描かれていない。
「……その花。もしかして、誰かに描いてもらった?」
花柄さんが、自分の胸をぽこんと叩いた。それから、二枚並べた絵の片方を、とんとん、と叩く。
エミールが頷いた。
「じゃあさ、こっちのほうの人にも、描いた花があるんじゃない?」
花柄さんがびくりと止まり、それからゆっくりと頷いた。
新しい防水紙を広げる。今度はヘルメットも、潜水服も描かなかった。金属の手袋が鉛筆を握り直す。防水紙の真ん中に、でこぼこの線が走る。丁寧に、心を込めて。
◇
閉館間際。花が一輪、咲いた。
歪んで、傾いて、花弁の数が左右で違う。けれどこの線は、この手袋からしか生まれないだろう。この花が胸に描かれているのは、たった一人だけ。
「……そういうことか」とルッツが唸った。
「なんだ、最初から持ってたんっすね」
ベルトは何も言わなかった。自分の描いた鍋の蓋を見て、少しだけ笑っていた。
花柄さんが絵を封筒に仕舞うが、宛名が書けない。
「金曜日にお届けしましょうか」
大きく頷き、封筒をカウンターの上に置いた。と、そこに中庭のほうから笛の音が聞こえてきた。
ヴィオさんのトアラの音色。
南方の笛が、銀の輪に支えられて夏の空気を震わせていた。低く、長く。朝には届かなかった鍛冶場の槌音の代わりに、潮の匂いを帯びた音が風に乗る。
花柄さんが、中庭のほうに耳を傾けた。ヘルメットの中の泡が、ひとつだけ大きく揺れる。
笛の音に乗るように、両手を広げる。そして、くるり、と回った。泡が弾けて、もう一回転。今日は――止める人がいない。
◇
四人が帰りがけに手を振った。花柄さんが手袋を振り返す。
閲覧席の隅では、セラがまだ銀の輪を磨いていた。試作だと言っていたが、その指は仕上げの動きをしている。
カウンターの上に、まるで似ていない絵が並ぶ。棒人間、鍋の蓋、設計図。同じ丸窓の絵が二枚。
そして、でこぼこの花。




