7月19日『いつもの日曜日』
今日も来た。
図書館の扉を押すと、午後の空気がふわりと入れ替わる。外の熱気が背中で途切れ、紙と木と、かすかに甘い蝋の匂いが代わりに満ちてくる。この匂いを吸い込むたびに、一週間ぶんの疲れが足の裏からほどけていく気がする。
カウンターの向こうに、いつもの司書をみつけた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日もよいお天気ですね」
三年間、同じ言葉を交わしてきた。飽きたことは一度もない。変わらないということが、どれほど贅沢か。わたしはこの短い挨拶のためだけに、日曜日が来るのを待っているのだ。
窓際の三番席。
椅子を引くと、木が短く軋む。この音も馴染みのものだ。座面のひんやりした感触が、じきに体温でやわらぐ。隣の席では灰色の翼の老人がうたた寝をしていた。穏やかな寝息と、微かに響く足音。どこか遠くでページをめくる音がそれぞれに混じり合って、ひとつの静けさになる。
午後の光が斜めに射し込み、埃の粒子をゆっくり泳がせている。
光の角度が変わらないうちは、ここでは時間がほとんど進まない。だからわたしはいつも、少しだけ背もたれに深く座り直す。棚から一冊を取り、先週の続きを開く。
第五章。挟んでおいた栞を外し、最初の一行に目を落とす。指先に紙の乾いた手触り。インクのわずかな凹凸。
自分の席があるとは、こういうことだ。ここに座ることを誰にも説明しなくていい。
それは実に居心地のいいものだ。
◇
おや?
手洗いから戻ってみると、三番席の椅子がきちんと机に収まっていた。
おかしいな、引いたまま立ったはずだが。椅子の座面に指が触れる。
――冷たい。ついさっきまで座っていた木が、朝からずっと空いていたかのように冷えきっている。
開いておいた本も閉じられている。いや、それだけじゃない。栞が、なくなっている。足元を探る。椅子の下、机の脚の影、隣の席、壁の隅。見つからない。
仕方ない。本を開き直そう。
第五章。先週はどこまで読んだか、記憶をたどってみる。この段落には――覚えがある。この一文は――覚えがない。いや、あるような……ないような。境界がぼやけて、ページの上を指が彷徨う。
隣の老人に目を向けた。うたた寝を終えて、窓の向こうに視線を落としていた。
「すみません」
老人が顔を上げる。
「……なにかね」
「毎週ここでお隣に座っている者です。先週もお会いしましたよね? 栞を無くしてしまって――」
老人の目がわたしを見た。警戒でも敵意でもない。ただ、心当たりがない、といった風に。通りで見知らぬ者に話しかけられたときの、あの空白の表情。
「――日曜はたいてい、この辺りは空いておるがの。おぬしの事は知らぬのう」
この席は——空いている。
◇
カウンターへ向かう。
「すみません。貸出記録を確認していただけますか」
司書が台帳を開いた。丁寧な手つきでページをたどる。わたしは名前を告げた。指が滑っていく。端から端まで。折り返す。もう一度。
「申し訳ございません。そのお名前での記録が見当たりません……」
「三年間、毎週お借りしています」
司書の目を見た。
同じ色の瞳だった。なのに、奥にあるものが何か違う。
三年間「こんにちは」と言ってくれた人の目には、百五十回ぶんの記憶が薄く積もっているはずだ。季節ごとに変わるわたしの上着の色、雨の日の折り畳み傘、カウンター前を通るときの足音の速さ――名前は知らなくても、輪郭くらいは残っている、そういう類の記憶の残滓が。
いま、わたしを見ている目は、ただ透きとおっていた。何の重みもない親切さだった。
「この本です」
わたしが差し出した一冊を司書が受け取った。背表紙を確認しながら、棚の方へ目をやって、首をかしげた。
「……確かに当館の蔵書と同じ書名のようですが、管理番号が記載されていないようですね」
棚には同じ本がすでに収まっている。今渡したものと全く同じ――。
◇
メモ用紙を一枚もらい、ペンを借りる。
名前を、書く。一画ずつ、丁寧に。インクは、出る。よし。
紙の上に文字が刻まれていく。確かに、わたしの名前。確かに、わたしの字。
「これが、わたしの名前で――」
司書が受け取り、目を落とす。長い沈黙。そして、紙面をこちらに向けて返した。
――白紙。
見えている。わたしには見えている。見えているはずだ。見えているんだ。
もう一枚。もう一枚。もう一枚。もう一枚。もう一枚。
指が止まった。
――思い出せない。最初の一画は縦だったか――横だったか。何と読むのだったか。
力が入らない。窓からの光。明るさがわからない。匂いがしない。音が聞こえない。
蝋と木の匂いも、老人の寝息も、ページをめくる音も、足音も、目の色も。色も――。
わたしの名前は。
名前は。
名――。
◇
閉館。
カウンターを整える。今日は穏やかな日曜日だった。来館者は七名。
三番席の椅子がほんの少しだけ引かれていた。戻す。座面に触れると、日の光のかすかな温もりが残っている。
棚を巡回すると、一冊、背表紙の向きが逆になっている本があった。何気なく開くと、最後のページの余白に、爪で引っ掻いたような小さな傷跡をみつけた。修復依頼をするほどの傷ではなさそうだ。戻しておく。
カウンターの脇にはメモ用紙が数枚散っていた。風で飛ばされたのだろうか。
すべて白紙だった。まとめて、くずかごに入れた。




