7月18日『花咲く』
朝の光がすこし白い。まだ誰の体温にも触れていない光。
図書館に入ると、すぐさま中庭に寄る。石畳の隙間から昨夜の雨の匂いがまだ残っている。
ケヤキの根元に置いた植木鉢の前にしゃがむ。毎日のように繰り返してきた、祈りの動作で。膝の形を覚えた石畳が、今朝もひんやりと迎える。
――咲いた。
白い花弁の縁に、薄い紫がにじんでいた。まだ自分が花であることに慣れていないような、おずおずとした花弁。朝露が一粒、くぼみに溜まって光を返していた。
紫色。あの子の色。種を持つ小さな手。
種の中に畳まれていた約束がひとつ、ほどけた。声にならなかった。目の奥だけが熱い。
触れたら壊れてしまう――花が脆いのではない。私の指が震えているのだ。両手を膝の上に置いて、ただ見ていた。こんなにも小さい。けれど、ここまで来た花。
中庭の入口から声がした。マリアさんの「きれいねえ」と、ミーアさんの返事。大きな足音がひとつ、その横を通り過ぎていく。ルッツくんかハンスくんだろう。みんな、土曜日をいつもの速度で動いている。私だけが、この花弁の前で止まっていた。
◇
翼の影が、石畳を横切った。
顔を上げると、中庭の壁の上から小柄な影が降りてくるところだった。淡い青灰色の羽毛が朝の光を弾く。空からの贈り物がひとつ、降ってくるように思えた。かぎ爪の足が石畳にとん、と着地して、巻き起こった風が砂粒を踊らせる。
リーゼルさんだ。顔は知っているけど、私は話したことがない。
「あ、咲いてるね!」
まっすぐに駆け寄ってきて、花の前でしゃがみ込んだ。嘴が花弁に触れそうなほど顔を寄せる。
「いい匂い。ちょっとだけ、甘い」
「……ほんとう。甘いのね」
この子に教えられて初めて、甘さが鼻先に届いた。
風の匂いのする子だった。羽毛のあいだから、ここよりずっと高い場所の乾いた風が香る。空を持ち歩いているような子だ。
「……明後日から遠くへ行くの。おじいちゃんとお母さんと一緒に、アエリア……『風の都』に」
「風の都ですか?」
「知ってます? 風車がいっぱいあって、丘の上から街全体が見えるんだって」
鞄から一冊の本を引き抜いた。風車の配置図に栞が挟んである。
私が土を見つめていた百日のあいだ、この子は空を見つめていたのだ。ふたつの時間が、今朝この中庭で隣り合った。
「この本の場所を、全部見てまわるんです。おじいちゃんが昔歩いた道で――」
「おじいさんと一緒に?」
「うん。おじいちゃんの足が動くうちにって」
さらりと言った。けれど私には聞こえた――その一言の底を流れる静かな水音が。この子は知っている。時間には限りがあること。縁を過ぎたら届かなくなるもののことを。
「しばらくここには来られないから――」
リーゼルさんはそこで言葉を切って、花を見た。顔を少し傾けて、じっと。
「……どうかした?」
「え? ううん、あたしは大丈夫。だけど、この花の成長をもう見れないんだなって――」
「……そうね。花はきっと、誰かに見てほしくて咲くのよね」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。
短い沈黙。リーゼルさんの翼がわずかに開いた。
「あたし、飛べますよ。見せたい人がいるなら、届けられます」
笑ってしまった。こらえたけれど、声に出た。温かくて、すこし眩しい。
「ごめんなさいね。ありがとう。でも、この花はここがいいの。ここで咲いたから意味がある」
リーゼルさんは何度か瞬きして、それからうなずいた。
「なんとなく、わかります。あたしも――おじいちゃんと歩くから意味があるんだと思う」
まっすぐな言葉だった。まっすぐすぎて、胸を素通りして奥のほうに届く気がした。
「――じゃあ、あたしが帰ってきたとき、まだ咲いてるかな?」
「どうかしら、花は散るものだから。でも――」
言いかけて、止まる。
「でも、種は残る」
リーゼルさんが花を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……じゃあ、また咲きますか?」
「ええ。誰かが植えれば、きっとね」
◇
司書さんが中庭に出てきた。私に、短く「咲きましたね」。それだけ。
そしてリーゼルさんの方を向き直した。
「リーゼルさん、本のご返却ですね」
「はい。――また借りに来ます」
風車の本。何度もページの上を旅した一冊。一拍おいて、リーゼルさんは首を横に振った。
「ううん、向こうで全部見てくるから、今度は別の本かも」
「では、帰ってきたら――向こうで見つけたことを、教えてくださいね」
リーゼルさんの目が光る。
「約束する!」
跳躍。
翼が大きく開き、中庭の壁を軽く越えていく。羽毛の色が空に溶けて、境目がわからなくなった。風が渦を巻き、花弁がひとつ揺れた。
リーゼルさんはもう見えなくなった。ケヤキの葉だけが、通り過ぎたものの名残を揺らしていた。
◇
私は、一人になった中庭で、植木鉢の前にもう一度しゃがみ込んだ。
今度は、指先で少しだけ触れた。今朝震えて触れられなかった花弁は、柔らかくてすこしだけ冷たかった。何度も夜を越えて咲いた花。
鼻を寄せると匂いがした。
「甘いんだ」
翼が残したかすかな風のなかで、花が揺れている。




