7月17日『遠い匂い』
金曜は陽がまっすぐに落ちる。
七月も半ばを過ぎると窓から入る光の角度が変わり、一階の閲覧席に白い四角が並ぶ。乾いた紙と、温まった木。昨日まで漂っていた重さが嘘のように風通しがよい、静かな午後。
今日、この図書館でせわしないのは、細工師見習いのミルだけだ。二階と三階の美術棚を何度も行き来して、花の図案集を探していた。
◇
カウンターに三角の耳が見えた。ニッカだ。
「先週の窓、直ったって聞いて。あたし気になっちゃって」
二階東側の鎧戸のことだ。修理は先週末に終わっている。
「匂いでお分かりになるものですか」
「ナディさんに同じこと言ったら怒られそうだけど。鼻って正直だから」
琥珀色の目が笑っている。
「窓に九十年分の風が溶けていると、先日おっしゃっていましたね」
耳がぴくりと動いた。
「――覚えてるの? あ、ごめん――でもそれすごくない? あたしなんか昨日嗅いだって匂いだってもう忘れかけてる」
照れたように耳の先を伏せ、「じゃ、九十年と八日目、確かめてくるね」。
軽い足取りで二階への階段を上がっていく。
入れ違いに、扉が押された。
◇
エルザの手を握ったトビアスが入ってくる。装具の音が違う。カチ、カチ、と乾いていた歯車が、コ、コ、と低く丸く聞こえる。――魔道具が馴染んだ証拠だ。
「しずかになった」
トビアス自身が言った。足を止め、自分の足元を見下ろし、もう一歩。コ。大きな黒い瞳がぱちりと瞬いて、うなずく。
小さな背中が、一人で階段に向かう。エルザの目がそれを追い――途中で止めて、閲覧席に視線を落とした。
隣ではハンスが植物図鑑を広げていた。煤の染みた指で花の絵を描いている。五弁の花が六弁になり、消して、また六弁。
「きれいね」とエルザが覗き込む。
「……売り物?」
「花弁の数が、なかなか決まらないんすよね」
「うちの子も絵を描くとき、歯車の歯を数えるの。いつも違うんだけど、あの子にとっては全部正解らしいわ」
ハンスが少し笑い、鉛筆を持ち直した。階段の方からコ、コ、と音が聞こえきて、手が止まる。
「装具っすか? 丸い音っすね」
「ええ。やっとあの子に馴染んできたみたいで」
「馴染む」ハンスが頷いた。
「……あの装具の部品、たぶんうちの炉で焼いたっすよ。ほら、あの部品っす」
エルザが目を丸くする。
「すごく複雑で精密な注文で――どんな野郎なんだって、親方衆の間でも噂になってたっすよ」
◇
二階の東窓。修理された鎧戸を抜ける光の線が細い。
閲覧席には、地図帳を広げたトビアスがいた。等高線を指でなぞっている。山の形。上がって、下りて、また上がる。
かちゃり、と小さな金属音。脇腹にぎこちない花の描かれた貝殻さんが、向かいに座っている。同じ見開きの海側に指を置き、等深線を手袋でなぞる。浮かんで、沈んで、さらに沈む。
トビアスの指が山を下り、貝殻さんの指が海底から浮き上がる。ふたつの指が、海岸線の同じ一点で止まった。
トビアスが首を傾げて見上げる。
「ここ、くっついてるとこ」
丸窓の奥で泡がひとつ昇る。トビアスが地図帳から顔を上げ、自分の足元を見た。
「これもくっついてるよ。足のかたち」
革と鋼板。足首の小さな歯車が、応じるようにくるりと回った。
「……歩けるかな。遠いかな」
貝殻さんの指が海岸線からゆっくり内陸を辿り、地図帳の端まで戻ってきた。距離を測ったのか、道を示したのか。
「遠いんだよね」
トビアスは残念そうではなかった。遠く窓の外を眺め、装具がコ、と短く鳴った。
◇
「ねえ、これ。見てもいい?」
ミルだ。美術棚のほうからふいに戻ってきて、トビアスの前を通りかかり、足を止めた。トビアスの足元に目が降りている。
「おねえちゃん、歯車すき?」
「好き――っていうか」。少し黙って、「うん。好き。いい道具だね――これ」
ミルの目が地図帳に移った。海岸線のあたりで、少しだけ長く止まり、誰に言うでもない小さな声でつぶやいた。
「……海だ。水――きれいかな」
貝殻さんの丸窓の奥で、瞼のない目が動いた気がした。
エルザは気づかない。
◇
夕暮れ。
階段の上から声が降りてきた。
「――いい鉄の匂いだね。品がいい。それにこの油……市販のじゃない。誰かが手で混ぜてる、繊細な匂い」
ニッカの声。
「おねえちゃん、鼻すごいね」
歯車の音が階段を下りてくる。ニッカとトビアスが並び、その後ろにミル。さらに後ろ——かちゃり、と小さな金属音。
エルザが立ち上がって迎えた。トビアスの頭を撫でる。少しだけ、強く。
「この子の装具、来月また新しくなるんですよ。診療所の先生に相談したら、ウルスラさんという方を紹介してくださって。扱う子の歩き方をよく見てくださる方で――」
貸出帳の上で筆が止まった。ウルスラ。――ずいぶん、遠い名前。
◇
閉館。
コ、コ、コ。かちゃりかちゃり。歯車と金属の足音が遠ざかる。
帰り際のニッカは完璧な敬語だった。扉を引いて、半分閉まったところから顔だけを戻す。
「ナディさんによろしくね! それと――」深く息を吸った。
「今日は……鉄と、炭と、紙と、油と――あと何? なんだろう。知らない匂いが――」
それだけ言って出ていった。耳がぴんと立っていた。
――知らない匂い。
私だけが知っている匂いだ。この手に教え込まれた、古い古い記憶の匂い。




